向井寛『肉』について(井川耕一郎)


(以下の文章は、mixiの「渡辺護自伝的ドキュメンタリー制作日記」からの転載です(2012年08月20日))


8月17日(金)に銀座シネパトスで、向井寛の監督デビュー作『肉』(65)を見たので、そのことについて記しておこう。
一度見ただけだから、批評にはならないだろう。せいぜい覚え書き程度のものである。


体の一部の極端なアップの連続で、映画は始まる。
これはヘソのあたりだろうと分かるようなカットもあるが、どこのアップなのかきちんと確認できないまま、次のカットに移ってしまうときが何度かあった。
そうした中に、女性の乳首にしか見えないものがあったのだが、あれは本当にそうだったのか。
渡辺護さんの話では、当時の映倫の審査基準では、乳首もお尻のわれ目も見せてはいけないはずなのだが……。
それから、とり肌のアップも気になるものだった。
皮膚の上にあらわれたいくつもの突起は、思い返してみると、人のそれだったのかあやしい。
ひょっとして、あのとり肌は鶏の皮だったのだろうか(となると、女性の乳首と見えたものも何か別のものだったのかもしれない)。
そして、シネスコ画面の両サイドに足の裏が映り――つまり、股を開いてあお向けに寝ている女性を足の裏の側から撮っているということだが――、画面中央の暗部から、「肉」というタイトルが客席に向かって迫ってくる。
「あの頃は、みんなで競い合うようにして、奇抜なカットばかり撮っていた」と渡辺さんは語っていたが、『肉』のオープニングには、なるほど、こういうことか、と思わせるものがあった。


メインタイトルのあとに出るのは、「第一話 人妻」というタイトルである(『肉』は三話からなるオムニバスなのである)。
サラリーマンが帰宅途中に交通事故にあう。
車にはね飛ばされる男の主観カット(手持ちカメラ)の次に来るのは、真っ暗な画面だ。そこに画面下から男の顔がフレームインする。
男は妻と布団の中にいるのだが、どこか様子がおかしい。すると、男のナレーションで、交通事故のあと、性的に不能になったことが告げられる。
もちろん、妻にも事情は分かっているのだが、しかし、彼女にとって、性的な満足を得られないことはたえがたい苦痛だ。
真昼間、妻は夫に抱いてほしいと哀願し、着物を脱ぐ。
このシーンのスチール写真は、『肉』といえば、かならず出てくるものだ(今回の上映のチラシにも使われている)。
窓際に立つ内田高子の全裸の後ろ姿は、映画においても、スチール写真と同じくらい強い印象を残す。
(渡辺さんは、「向井は、一瞬、女優の全裸を見せて、観客に、あッ!と言わせるのがうまかった」と語っている)
しかし、映画を見たあと、あらためてスチール写真を見ると、手前に映る夫が気になってくる。
頭をかかえて苦悩する夫。これは映画でもそうであった。
夫は髪の毛をかきむしり、頭をかかえて苦悩するのである。
これはどう見たって、オーバーな演技だ。
しかし、あッ!と言わせるような映像に負けない演技となると、これくらい大げさというか、くさい芝居でないと駄目だと、向井寛は考えたのだろう。


夜の町で、夫は女を買う。しかし、彼女とのベッドシーンはない。
女を買うシーンのあとに続くのは、連れ込み宿で女が「何すんのよ!」と怒って出て行くシーンだ。
一人のこされた夫は、手にしているソーセージを食べる。
このことから、夫が自分の物のかわりにソーセージを使おうとしていたことが分かる(変態的なベッドシーンは、おそらく当時の映倫の規制では無理だったのだろう)。
夫は性的に不能だが、性的な快楽を追求しようとしているのだ。
(それにしても、ソーセージを食べる夫の姿は、間がぬけていてちょっと笑えるものになっていた)
結局、夫の性的快楽の追求に役立つものは、妻以外の女ではなかった。
ある夜、夫は自宅に会社の同僚などを呼んで、マージャンを始める。
だが、その中にマージャンを知らない部下がいた。彼は妻と酒を飲み、酔いつぶれてしまう。
部下を寝かせようとする妻。
すると、部下はふと目をさまし、妻の手をにぎり誘惑する――のだが、また寝てしまう。
妻は夫の横で寝ようとする。しかし、さっきのことが忘れられない。
それを察した夫はふたたび部下を自宅に呼ぶ。


妻は夫が寝たのを確かめると、寝室を出て、部下のいる部屋の前まで行く。
まあ、当然の展開というか、妻は部屋の前で入るのをためらい、戻ろうとする。
すると、部屋から手がにゅっと出てきて、妻をつかみ、中に引きずりこむ。
ここから、妻と部下のベッドシーンとなるのだが、その中に、手持ちカメラであえぐ妻の顔に寄ったり、引いたりをくりかえすカットがあった。
きっと、これは妻の上に乗っかっている部下の主観カットということなのだろう。
AVの撮り方を思わせるようなカットで、なかなか興味深いものだった。
しかし、それ以上に興味深かったのは、からみのカットと、それをのぞき見る夫の目のカットが交互に映るあたりだ。
一体、夫はどこから妻と部下が交わる姿を見ているのか。
現実的に考えれば、妻が引きずりこまれた部屋の戸のすきまから、ということになるだが、どう見ても、からみのカットはその位置からのものではない。
たとえば、四本の足がからみあうカットなどは、押入にでも潜んで、のぞいていなければいけないカットだ。だが、そんなところに夫がいるわけがない。
しかし、私たちはどこかに不自然さを感じながらも、それでも、カットの連鎖に見入ってしまう。
――と、そこまで見て、ふいに気づく。
からみのカットは、それを見る夫の欲望をあおる。そして、夫の高まる欲望に応えるように、新たなからみのカットが続き、そのカットが夫の欲望をさらにあおり……(以下、くりかえしになるので省略)。
つまり、のぞき見る夫の目のカットとからみのカットの関係は、観客とピンク映画の関係によく似ているのだ。
そういえば、夫は不能で、妻と関係を持てないという設定になっていたが、これもまた、観客とスクリーンに映る女優の関係を暗示するものではないだろうか。
『肉』の第一話は、ピンク映画であると同時に、ピンク映画論にもなっているように、私には見えた。


第二話のタイトルは、「女子大生」となっていた。
三人の女の子が歩いているところが、引きの画で映る。
真ん中の女の子の髪型が、『月曜日のユカ』あたりの加賀まりこを意識したものになっている――たぶん、彼女が飛鳥公子だ、と思った。
飛鳥公子は、渡辺さんのデビュー作『あばずれ』の主演女優である。
実を言うと、『肉』を見ようと思った理由の一つに、演技をする飛鳥公子を見てみたいということがあった。
しかし、結論から言うと、『肉』に出ている飛鳥公子には失望したのだった。
まず、単純に映り方がよくない。
二年前に古本屋でやっと見つけた当時の雑誌(『甘い写真』という雑誌)のグラビアに写っている子と同一人物なんだろうかというくらい、映りがよくないのだ。
しかし、それ以上にがっかりしたのは、第二話の主演ではなかったということだ。
「女子大生」というタイトルで、ファーストカットに映っていれば、当然、飛鳥公子が主演だと誰でも思うのではないだろうか。
ところが、ちがうのだ。飛鳥公子は従兄に女友だちを紹介するという脇役でしかなかった。
第二話の本当の主人公はその女友だちで、演じるのは第一話と同じ内田高子なのである。
ついでに言ってしまうと、第三話の「娼婦」の主演も内田高子で、要するに、『肉』という映画は、内田高子にさまざまな役を演じさせる映画であったのだ。
『肉』の内田高子は三話とも、とても魅力的に映っている。
たぶん、向井寛の関心は内田高子だけに集中し(後に結婚したくらいだ)、飛鳥公子なんかどうでもよかったのだろう。


第二話のあらすじは以下のとおり。
性科学を研究している大学院生がいて、彼は従妹(飛鳥公子)に調査対象として内田高子を紹介してもらう。
男性経験豊富だと内田高子は大学院生に言うのだが、大学院生は「それはウソで処女だ」と判断する。
大学院生は友人たちに、彼女が処女であることを証明すると宣言し、誘惑して寝る。
「やっぱり、彼女は処女だった。ほら、見ろ」とシーツを指さす大学院生。すると、日の丸がはためくカットに変わる(破瓜の血の間接表現なのだろう)。
一方、内田高子はというと、飛鳥公子と一緒にいた。「男って簡単にだませるものね。わたしのこと、本当に処女だと思ったみたい」。破瓜の血は実はニセモノだったのだ。


第二話は、第一話に比べると、出来はちょっと落ちる。
しかし、第一話で観客と映画の関係を問題にしたあと、「だますこと(演じること)」をテーマにしている点は興味深い。
この「だますこと(演じること)」というテーマは第三話でもくりかえされる。


第三話の「娼婦」のあらすじは以下のとおり。
内田高子が演じるのは娼婦。彼女はかたぎのサラリーマンと恋に落ち、結婚の約束までする。
しかし、旅先のホテルに売春の元締めの男がやって来て、彼女の正体をばらしてしまう。
ショックを受け、部屋を出て行ってしまうサラリーマン。
内田高子は、元締めにありったけの金をたたきつけ、サラリーマンを追いかける。
金を手にした元締めは隣の部屋に行く。
「ボスの言うとおり、あの女、ずいぶんと金をためこんでましたぜ」
すると、ボスと呼ばれた男がふりかえる。男はサラリーマンだった。
元締めとボスは、内田高子をだまして稼いだ金をまきあげたのだ。
そうとも知らず、内田高子はサラリーマンの名を呼び、海辺を走る――。


これも出来から言うと、第一話には及ばないような気がした。
しかし、併映の小川欣也の『女王蜂の欲情』(67)と比べると、数段見ごたえがあったように思う。
何と言っても、ベッドシーンを撮ることへのこだわりがちがうのだ。
『女王蜂の欲情』は、「はい、からみが始まりした」というところで、ベッドシーンを打ち切っている。
おそらく、当時のピンク映画はそれでOKだったのだろう。
だが、『肉』はそうではない。
それがどんなからみなのかを映倫の規制をかいくぐって何とか見せようとしているのだ。
たとえば、第三話の冒頭のからみでは、内田高子が初老の男の上に乗って、のけぞっているらしい顔のアップがかなり長く映る。
正常位以外の体位が連想されてしまうようなカットを撮ることは、この頃としてはかなりの冒険ではなかったろうか。
また、連れ込み宿の灯りを消した部屋で、内田高子が脱ぐカットがある。
ネオンが光る窓外を向いて裸になり、それからゆっくりとふりかえるのだが、これも乳首が見えてはいけないという規制への挑戦だろう。
暗がりの中でも、一瞬、乳首が確認できたような気がするのだが、そういうことをあえてやってみせたから、向井寛は「館主会で評判になった」にちがいない。


なんだか、だんだんしまりのない文章になってきたので、ここらでやめるとしよう。
第二話、第三話にはちょっとケチをつけるような書き方になってしまったけれども、しかし、『肉』は興味深い作品だった。
できたら、『破戒女』(65)、『色舞』(65)、『続・情事の履歴書』(66)といった他の初期作品も見てみたいものだが……、おそらく、フィルムは残っていないだろう。



追記


向井寛の初期作品『男と女の肉時計』(68)が、2013年2月に神戸映画資料館で上映されます。

ぴんくりんく編集部 企画
「ピンク映画50周年 特別上映会 〜映画監督・渡辺 護の時代〜」


2013年2月8日(金)〜12日(火)


2月8日(金)・9日(土)
『紅壺』(1965年/渡辺護監督/16mm)
『婦女暴行事件 不起訴』(1979年/渡辺護監督/35mm)
『三日三晩裏表』(1969年/東元薫監督/16mm短縮版)


2月10日(日)・11日(月・祝)
『おんな地獄唄 尺八弁天』(1970年/渡辺護監督/16mm)
『男と女の肉時計』(1968年/向井寛監督/16mm)
『素肌が濡れるとき』(1971年/梅沢薫監督/16mm)


2月8日(金)〜12日(火)  『糸の切れた凧 渡辺護が語る渡辺護』(2011年・122分・監督:井川耕一郎、出演・語り:渡辺護)★1日1回上映


2月9日(土)・10日(日)は渡辺護監督、井川耕一郎によるトークショーあり


会場:神戸映画資料館(TEL 078-754-8039)
 神戸市長田区腕塚町5丁目5番1
 アスタくにづか1番館北棟2F 201


詳しくは、神戸映画資料館公式HPをご覧ください。
http://kobe-eiga.net/