キャメラマンは語る3(志賀葉一×常本琢招)

[撮照を兼ねる・生涯のカット]

−結局、志賀さんは今回一人で撮影も照明も兼ねているという形だったわけですが、ピンク映画でもそういう形態というのは多いのでしょうか。
志賀「昔はほとんど、兼ねるということは無かったね。ピンク映画も劇映画の流れの尻尾にあるものなんだけど。スタッフも、スクリプターがいなくなり、何がいなくなりして減らされて、予算が少なくなり日数が少なくなって、照明さんに払う予算が無くなってきたというのもありながら、まあカメラマンの方でやれば出来るんじゃないかということで照明もやるようになってきた。ただ結局、撮照両方やるには時間とかが現場で必要なんだよね。だから、予算があってもカット数がすごく多いテレビなんかでは撮照兼ねるということは成立しづらいんだよね。それからVシネなんかでも。撮照分けてる方が早い。あと、撮照を分ける場合として、照明にキャラクターを必要としない作品というのもある。要するに照明にパターンがあって長い中で出来た”定石”のようなものがあるわけよ。そうすると慣れた照明部さんに言うとすぐ出来るわけ。まあ、たぶん10個くらいで全部入っちゃうくらいのパターンがあるのよ。そうするとカメラマンと監督は、同時進行で別の方向から攻められる。ただ、光にキャラクターみたいなものを入れていこうということになると二人の人間(撮影と照明の二人)がやるのはどうしたって矛盾だよね。だからライトマンの人がいるなら、その人にそのフィールドは全部任せるということじゃないと。そうしないと、カメラマンとライトマンと監督との力関係だけで、どこにライトを置くのが良いのかっていうようなはっきりとは言えないことが、決まってきちゃう。
 アメリカでは、フレーミングとかカメラの動きは大体監督が決めてるんだよね。アメリカだとオペレーションシステムだから、その指示を受けてオペレーターがやってるわけ。撮影監督は何してるかって言うとライトやってるわけ。どちらかと言うとライティングディレクターに近いんだよね。」
−志賀さんの生涯の会心のカットってありますか?
志賀「昔、ピンク映画のシリーズで『銀田一』シリーズというのがあって、題名忘れたけどさ。離ればなれだった姉妹のお尻に亀さんと鶴さんの入れ墨があって、それを一緒にすると財宝の在処が分かるっていう話なんだけどさ。夕方、伊豆の砂浜で大ロングで主人公が財宝見つける前だったか、歩いている横位置の海向けのカットがあって。そこで、空がまだらに蠢いているような極彩色の夕景っていうのを作るんで、レンズに細ーいカラーフィルターを貼り付けていったんだよ。ワセリンをレンズに塗ってうねらせたフィルターをペタペタ貼り付けたんだけど、それがもの凄い綺麗でね。もう映倫のおっさんも絶賛するぐらいの、俺もね一生にあれだけ上手くいくことないんじゃないかっていうくらい、二度と同じことは出来ないっていうくらいの夕景が撮れた。やっぱりツキっていうのがあるんだね。曇ってたんだよ。曇ってる方が、色のフィルターが綺麗に出るんだよ。青空だとくすんじゃうんだよ。白いキャンバスの上に色を乗せていくようなもので。で、当時シネスコだったから、映画館でバーンとその夕景が広がって、本当に綺麗だった。」