『赤猫』―――化けること・1(小出豊)

(この批評は『赤猫』についてかなり詳しく論じています。ネタバレが気になる方は映画を見たあとでお読み下さい)



 『赤猫』は42分の上映時間をもち60のシーンで構成されている。数式化するならば〈1シーン42秒間×60=42分〉ということになる。大半のシーンがマンションの一室であるにしても、42分という上映時間を考慮するならば、そのシーン数の多さは明らかだ。

 60ものシーンを混乱させることなく見せる明瞭な手さばきと、42分間で物語を語りきってしまう淀みのなさだけでも、この作品の演出家の非凡さは立証されるだろう。しかし、「明瞭さ」と「淀みのなさ」のために不必要だと自ら消し去ったものにより、彼は凡庸と見まがわれてしまったりもするようだ。つまり、彼の「演出上のすべての努力が、演出そのものを排除しよう」とし、また彼が「まるで物語を語っていないかのように物語を語ろう」とするために、「脚本をただ映像化しただけ」などという揶揄を見物人に口にさせてしまったりする。ただ、この透明になろうとする身振りは、古典的なハリウッドの形式を無批判に踏襲するという悠長なものではなく、『赤猫』において主要な「化ける」という行為を、映画の語り手である自らも実践してみせるというものなのだから、凡庸などというものからは遠く離れた身振りなのだ。


 冒頭、画面外から夫の声が聞こえてくる。「わたしの出張中に妻の千里が流産した。風呂場の電球を取り替えようとして椅子から転落したのだ。千里は退院してからもずっと黙ったままだった。けれどもある夜…」その直後「眠れない」と言ってリビングに現れた妻が流産するまでの経緯を語り始める。しかし、妻の真剣な話しぶりとは裏腹に、その話が本当にあった出来事だという証拠はなにもない。夫は妻の話を信じることが出来ず、妻が行ったという場所へと赴くが、何の痕跡も探すことは出来ない。仕方なく家に戻ると妻の姿はなく、ひとり取り残された夫の画面外の声で物語は終わる。「彼女は子供を産むことを恐れていたのだろうか…」 

 まず指摘しておくべきは、この物語が夫の回想の中で妻の回想が語られるという入れ子の構造をなしているということだ。次に指摘しておくべきことは、何の物的証拠もない妻の話が信憑性を欠いたものであるのはもちろんのこと、そればかりか、妻の存在すら疑わしく思えてくるということだ。妻の話に言質がとれないように、妻が跡形なく失踪した今となっては、妻がこんなことを語り出した、という夫の話もまたその言質をとることができない。もしかしたら妻の語りが妄想の産物であったかもしれないように、夫の語りもまた妄想の産物でしかないのかもしれない。

 とはいうものの、彼らの話の信憑性はさして重要ではない。注目すべきは、痕跡を消し去り、そもそも存在すらしていなかったかもしれないという疑念を抱かせる妻のあり様が、自らの演出の痕跡を消し去り、透明になろうとする演出家のあり様と重なり合っていることである。演出家は、彼女の身振りと同調するように透明化を目指し、彼女の身振りを真似る。彼は彼女へ変貌する(化ける)ことで、自らの痕跡をさらに目立たないものにしていこうとする。

 こういった妻と演出家の同調は、既に触れた彼の「明瞭」で「淀みのない」語りにおいても見出すことが出来る。しかし、人は、妻の語りについてひどく緩慢な印象を感じ取り、そこに違いを見出すかもしれない。だが、演出家はその「緩慢さ」にも同調し、彼女へ化けていく。彼は初号試写の後の再編集作業で特に新たなカットを加えるわけでもなく、いくつかのカットの頭や尻を伸ばしただけで全体として5分ほど上映時間を延長し、「緩慢な」印象を醸し出すのだ。

(続く)


小出豊映画美学校第3期初等科の1stCutに選ばれ、『綱渡り』(00)を監督*1万田邦敏監督短編作品『う・み・め』(04)『スパイ道・史上2番目の作戦』(05)『lunch time』(06)に助監督として参加。

*1:『綱渡り』に関する情報はこちら。http://members.at.infoseek.co.jp/eibi1stcut/tsunawatari.html