『赤猫』―――化けること・2(小出豊)

(この批評は『赤猫』についてかなり詳しく論じています。ネタバレが気になる方は映画を見たあとにお読み下さい)

 自分の妊娠中に夫が浮気をしているのではないかという不安を、火を見ることで鎮めることを覚えた妻は、不安の増大と共にもっと大きな炎を欲するようなっていく。一方、妊娠中に火を見ると痣のある赤子が生まれるという迷信が彼女の行為に枷をつける。しかし、制約はかえって彼女を大胆な行為へ駆り立て、とうとう彼女は、自分の不安を煽り立てる親戚の叔母の家に火を放つ。彼女は赤猫(古来より“放火”を意味する)へと化けたのだ。このシーンにおいて、叔母の家に火を放った妻は、次のカットでは既にバスの後部座席に腰を下ろしており、人目を忍びつつ急ぎ足で現場を後にするような逃走の運動は提示されることがない。あるいはまた、物語の終焉、妻が姿をくらましてしまうシーンでは、夫の留守の間にそそくさと家を後にする妻の身振りなどが提示されることもなく、ガランとしたアパートの空間と、「いつの間にか彼女は姿をくらましてしまった」という夫の独白が耳に残るだけなのだ。ある強迫観念によって、妻が赤猫へと変貌するこの物語で、その赤猫の必須条件が「逃げ足の早さ」であるとわざわざ劇中で言及されているにもかかわらず、妻の逃走の場面が排除されているのは、いくつかの可能性の中から恣意的に選択されたわけではないことは明らかだろう。このような運動の欠如により、先に述べた「緩慢さ」の印象は嫌が上でも意識させられることになる。

 そして、夫が出張に出かけた翌朝、悪夢から目覚めた妻の顔に出来た痣と一緒に瞳に張り付いた粘り気のある皮膜を目の当たりにしたわたしは、この作品に纏わりついている、ぬめぬめとした「触感」へと導かれることになった。運動の欠如としての「緩慢」さは、なにかぬめっとしたものに絡め取られた際の不自由さをも意味していたのではないか。だとすれば、妻の「緩慢」な語りは、不活発な顎の動きのためなどではなく、口の中のねちねちとした唾液に妨げられてのことだし、そのような「触感」は夫の瞼に触れる黒猫の肉球や、妻の瞼を舐める赤い舌など、いたるところに散りばめられていたことに気付く。その意味では、妻が転倒した際に落とした電球が派手に割れることなく、バスタブの水面にボタリと落ちるのは当然のことで、このような首尾一貫したイメージの連鎖が、見る人に「視覚」から「触覚」への感覚の「変貌」を可能にするのだろう。さらに加えるならば、こういった感覚の「変貌」は、まず始めに火を見ることを欲した妻が、次にモノが燃焼する匂いに魅かれ、さらには火を見ずとも火をつける行為に執着していくという妻の欲望の変遷に対応するものだ。

 このような「触感」的イメージはこの作品の脚本を担当した井川耕一郎の気質と軌を一にして、“火事”、“赤猫”、“痣”という因果の論理に還元されることのないものを紡ぐ物語の糊ともなって、たとえ一連の挿話の全てが妻の妄執であったとしても、永遠に醒めることのない夢うつつのまどろみのまま漂うことになる。


 「粘質」で「透明」な、まるで子宮内にいる赤子を覆う羊膜のようなものにこの演出家が包まれているためだろうか、人はこの物語で死産してしまい結局生まれ出ることのなかったなにものかと彼を見まがい名を付けようとしない。だが、この物語の主要な行為を「変貌する」あるいは「化ける」ことと測定し、語りにおいて自らすすんでそれを実践するという高度な身振りを見せる演出家の化けの皮をそろそろはぐときがきたのではないだろうか。

 『赤猫』に犯され孕まされたにもかかわらず、無視を極め込みそのまま死産させようと目論む輩の産道から彼を無理矢理引きずり出せ。そして大工原正樹と名付け祝福しよう。