『集い』(遠山智子)について

ついでに在庫処分をもう一つ。『よろこび』『黒アゲハ教授』『犬を撃つ』の作品評(http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060521/p1)の続きとして書いた『集い』遠山智子)の作品評を再録しておきます。
その前にパンフレットに載ったあらすじと監督コメントを。


『集い』(99年・16mm・30分) 
監督・脚本:遠山智子 
出演:冨田瑛子、廣瀬美葵、宮川大輔、堀田文子


<あらすじ>
森に囲まれた公園。6歳になる千は眠っているうちに一人取り残されてしまった。そこに若い女・秋崎が近づいてくる。「出口ならどこにでもあるんだよ」そう言いつつ、“出口”を案内するという秋崎であったが、千は彼女の手を振りほどき、逃げてしまう。
やがて千は或る家にまよいこむ。部屋の隅に米が置いてある奇妙な家。そこには一日の大半を眠って過ごしている老婆・小野、こたつに執着する男・平田、そしてマシュマロを食べることに憑かれている秋崎が暮らしていた。
初めはその家に漂う異様な雰囲気を感じて、こたつの中に潜り込む千であったが、やがて家に馴染んでいく。
小野の顔に雨の影が……。千は小野の死期を悟り、マシュマロの粉で小野の顔に死に化粧をほどこす。それは小野の跡を継いでこの家の主になるという意思表示であった。
小野が死んだ。千を中心に残された住人が無言で食事をしている。


<監督コメント>
出口へ導く秋崎の手を離れ、その家へ辿り着き、予感を抱いて立ち回る千は、強引で残酷な流れに組み込まれているのですが白々しいその態度のせいで千自らの意思と半々のようにも見えます。足の先しかみえていないような、そこにあるものへの強い信頼感と何かを探るような姿勢を、この家の住人達は共通して示しています。千にとっても、そこにあるものが大切なのです。夢のような状況の飛躍があり、千はその場に放り出されてしまいます。その先は続いていくしかない現実です。そう考えればやるせないような気もするけれども本人達にとっては、着実に生きているだけなのです。
その彼らの生活の大きな変化の始まりが千がこの家に来たときです。それをわかっているからこそ秋崎や平田は動揺しています。千を家に入れる時の平田の吐く首尾一貫しない言葉や、三人の夕食中の目線のやりとりがその軽い反発心の表れです。朝食の場面で小野は、平田をだしにすることで少し固くなっている千を溶かしてしまう。小野の細やかな動作には、彼女にしかわからない恐さや覚悟が滲んでいます。平田がくっついて離れなかったこたつが舞台となって秋崎の食べていたマシュマロの粉が小野の肌に帰っていく。この大きな流れの他にも、見る人がどこか何かを思える部分があればと思います。
元々、公園を通る喪服の人達を目にしたことと、俗信と、祖父母の住む村の様子などを組み合わせた話でした。書き直していくうちに、その事々が話に馴染んで、人物やその身の周りについて私自身よくわかってきました。途中で通過した祖父の死と、その葬儀の為に団子をまるめながら村の誰かが漏らした「そりゃ怖いけど待つしかない」という言葉、その他、その時々で強く思ったことがあってこの話を語ることができたと思います。この話の存在を体感して欲しいです。


力、震え、口 ―『集い』について―(井川耕一郎)

 遠山智子の『集い』は、初っぱなから三つの力で私をゆさぶった。一つ目は言葉の力。映画が始まってすぐ、「おいてけぼり?」と、主人公の少女、千は若い女(秋崎)に呼びかけられる。野原でうたた寝していて目が覚めたばかりだというのに、お前の本質は孤児なのだ、と少女は宣告されてしまったのだ。これは何とも強引だけれども、魅力的な出だしだと思う。私もこんなふうに単刀直入に物語を語りだしてみたいものだ。二つ目は画の力である。千は秋崎に手をひかれて画面奥へと歩きだすのだが、その行く手には深くて大きな森が見える。以前、いどあきおの脚本を読んでいて、「森は一つの密室である、という視点で捉えられた森の全景」という一行のト書きに出くわしたことがある。そのときには、いどあきおも現場に無茶な要求をすると思ったが、今まさにその正解を見ているという気がした。『集い』の中には、わずかな数のものだけで世界を表現しつくそうという強い意志が潜んでいるのだ。そして三つ目は声の力である。森の中でまたしても一人きりになってしまった千は、夜になってやっと一軒の家にたどり着く。彼女は家の中にいる秋崎と若い男(平田)に「入ってもいいの?」と訊ねるのだけれど、このとき、暗闇から響く千の声がかすかに震えて泣いているのだ。これには本当にはッとした。このとき、千は間違いなく孤児になってしまっている。つまり、千の声の震えは、彼女がこれからたった一人で世界と向き合わねばならぬ運命にあることを、きっぱりと告げているのだ。
 この三つの力にゆさぶられた私の身には、一体、何が起きたというのだろう。それは、一言で言って、子どもへ変化したということになるだろうか。以前、私はバタイユの『文学と悪』を読んでいて、そこにくりかえし「子ども」という語が出てくるのが気になったことがある。そのとき、私は本を広げたまま、とりとめない思いにふけった。子どもになるということは、ひょっとしたら、表現にとって重要な方法なのかもしれない。世界の残酷さにじかに触れ、生の核心をつかむには、子どもになるしかないのだ、と。このことは第二期初等科の四本の作品どれにも当てはまることかもしれない。福井廣子の『黒アゲハ教授』や木村有理子の『犬を撃つ』では、子どもの頃の記憶(前者では物憂げ坂上という地名、後者では真夜中に見た死体遺棄の光景)がドラマの核にあったし、また松村浩行の『よろこび』では、ドラムを叩いてリズムを生産するという児戯に等しい労働が重要な意味を持っていた。とは言え、四本の中で最も子どもが大切な役割を果たしているのは、遠山智子の『集い』ということになるだろう。
 森の中の一軒家で主人公の千は、大きく分けて二つの体験をする。一つは口をめぐる体験。この家では各自の食事はお盆にのせて出され、出た分は全部食べなくてはならない。私に学校給食の不快な体験(残飯のように臭かった炒り卵!)を思い出させるこの食事のシーンで、千は立ち食いやつまみ食いをするたび、秋崎に注意される。ところが、千の手をピシャリと叩いて躾けようとする秋崎も、あれはマシュマロだろうか、白い塊を自室でむさぼり食らっているのである。千がのぞき見る秋崎のその憑かれた姿には、胸をつかれるものがある。実のところ、秋崎は世界から傷を受けた一人の子どもでしかない。食に対するゆがんだ執着という形で表れた傷口は、森の中の一軒家に来てからも、完全に閉じることはないのだ。そしてもう一つの体験は、家が孕む力をめぐる体験である。どうやらこの世のものではない力がこの家には潜んでいるらしく、千はその力に共振して時折思いがけない言葉を口にする。たとえば、千はどこからか雨漏りのようにこぼれ落ちて堆積する米粒に触れた途端、「コメミ(米見?)ヲヤメテ、トオザカッテ……」と呪文のような言葉を呟く。またあるときには、家の主であるらしい老婆(まさ)と、雨が降った後に何かが起きる、と語り合う。こうした家の力との共振は秋崎や平田には恐れを感じさせるものだけれども、千にとってはどうやら運命であるらしい。と言うのも、そもそも彼女がやって来ることからして、家には分かっていたようなのだ。千が家の中に入ることを許されたその晩、彼女はご飯をよそってもらった茶碗の底に自分の名が彫ってあるのを見つける。秋崎によると、それは家からのお告げを受けて、まさが彫ったものだという。私は茶碗の底から「千」という字が出てくるカットを見た瞬間、ぞッとした。このカットには、自分の中に見知らぬ自分を見てしまう恐怖が見事に表現されていたのではないだろうか。
 映画の後半、まさは千に玉虫の死骸を手渡して、「玉虫は媚薬になる……千は家の主になる……」という謎めいた言葉を告げる。このことから、雨が降った後に起きる何かとは、どうも家の主の座がまさから千へ移ることらしいというのが、おぼろげながら分かる。そして、玉虫の死骸のシーンの後、家の住人全員がこたつのまわりに集まるシーンが来るのだけれども、このとき、四人の身に一体何が起きたというのだろう。カメラは極端なまでに登場人物に迫り、場合によっては顔の輪郭さえも画面の外へ追いやってしまう。その結果、秋崎の口は顔面を走る一本の亀裂に変わり、平田の目は裂口から今にもあふれだしそうな溶岩に変わる。そして、いくつもの皺が刻みこまれたまさの顔は、幾重にも褶曲をくりかえした山脈の断層面へと変貌する。要するに、これは、家の力に登場人物の顔が共振しているということ、カメラがまるで地震計のようにその振動をとらえようとしているということなのだ。そして、ついに私たちはまさの顔面に音もなく降りかかる雨の影を目にし、まさから千へ家の主の座が移譲される儀式を目撃することになるだろう。
 遠山智子の『集い』は決して完璧な出来の作品ではない。あるシーンは脚本以上のものを表現しているが、別のあるシーンでは脚本に書かれていることの半分も表現しきれていないと思う(これは撮りこぼしがあるということではない。表現の強さの問題だ)。にもかかわらず、『集い』には、私たちに息を殺してスクリーンに向かわせるだけの力がある。これは、世界を見ることを一からやりなおそうという意志が映画の中で働いているためだ。私は遠山智子の持つ可能性に大いに期待したい。彼女が次にどんなものを撮るか、それが今から楽しみだ。