彼女たちを撮りたいと思った−『西みがき』について−(井川耕一郎)

 昨年の8期初等科のときだった。
 演出実習の講評を一通り終えたところで、生徒から提案があった。「同じシナリオで井川さんがどう演出するのか、ぼくらに見せてくれませんか」
 実習で使ったシナリオの断片には、二人の女の子が出ることになっていた。自分の思いを打ち明けようと、友達を呼び出す同性愛の子と、そんなこととも知らずにやって来る友達の子。
 私は教室を見回して、二人の生徒に「出てくれませんか」と声をかけた。選んだ理由は簡単だった。彼女たちは授業後の呑み会にもよく顔を出すし、いつも楽しそうにしていたから。
 一週間後、生徒の前で演出を行った。場所は学校の試写室。演出と言っても、私の場合、ああしろ、こうしろ、と最初から細かく言ったりしない。くりかえし演じてもらって、時々、「その次はどうするの?」と質問するだけである。
 芝居は同性愛の女の子の二つ後ろの席に友達が座るところまで進んだ。このあと、友達は「どうしたのよ?」と言って、少しだけ距離を縮めるのがよさそうだった。しかし、立ち上がって中央通路を歩いて、一つ前の席に座るというのでは何かがちょっとちがう。
 さて、どうしたものか……と思っていたら、友達役の子が言った。
「あの、イスをまたいで前の席に移ってもいいですか?」
「ああ、じゃあ、やってみて」
 彼女はイスをまたぐと、前の席にひざを抱えて座り、「どうしたのよ?」と言った。
 そのとたん、見学していた生徒たちから、おお!と声があがった。
 私も声をあげそうになった。彼女の動きはユーモラスで優雅で、とても魅力的だった。そうか、この感じを活かして続きの芝居を考えればいいんだ、と私は思った。
 授業のあと、私は彼女に舞台の経験があるのか訊ねた。「いえいえ、そんな! 芝居なんかしたこともありません」と答がかえってきた。
 その子が本間幸子さんだった。私は彼女が演じる姿をもっと見てみたいと思った。


 8期高等科の製作実習を担当することになったとき、私がまっさきに思ったのは、本間幸子主演で撮ろうということだった。
 共演は、演出実習で同性愛の女の子役を演じてくれた粕谷美枝さんしか考えられなかった。とにかく二人は仲がよい。常本琢招が二人のとりとめないおしゃべりを聞いて、「女漫才コンビだなあ」と言ったことがあるが、たしかにそういうおかしさがある。
 さらに言うと、二人には正反対なところがあった。本間さんの面白さが伸び伸びと動き回ることにあるとしたら、粕谷さんの面白さはじっと動かず、エネルギーをためこんでいくことにある。二人の特色が組み合わさって滑稽で悲しいドラマはつくれないか……そんなことを考えながら書いたのが、『西みがき』のシナリオだった。


 シナリオを書いてみると、男が二人、登場することになった。
 本間さんの弟役を西口浩一郎くんに頼んだわけは、このブログに掲載されている彼の文章を読めば、すぐに分かると思う。弟役には本物の天然が必要であった。
 中村聡くんは6期生で、万田邦敏の『う・み・め』で堂々とした演技を見せている。前から彼には映画に出てもらいたいと思っていたので、この機会にお願いした。


 映画の演技について渡辺護はこんなことを書いている。「スクリーンに演技力など映らない。スクリーンに映るものは役者の人柄であり、存在感だ」(エッセイ『スクリーンに映るもの』 日本映画監督協会 http://www.dgj.or.jp/japanese/essay/04-8.html)。
 渡辺護のこの言葉は本質的なことをずばり言い当てたものだと思う。
 さて、『西みがき』は、出演者の存在感をくっきり映しだした作品になっているのだろうか。今、せっせと仕上げ作業に取り組んでいるところなのだが、何よりも気にかかるのはそのことなのである。