『西みがき』の演技の演出について(西山洋市)

 『西みがき』の出演者たちの演技は一見「ナチュラル」に見えるかもしれない。だが、実は『西みがき』はいわゆる「ナチュラル」を指向してはいない。出演者たちの演技は、ある出来事を「再現してみせる」ことのフィクション性を指向しているように僕には見える。つまり、それは、出来事をその渦中で現在進行形として生きるような演技ではなく、過去に起こった出来事を、「それはこんな風に起こった」と再現して見せることに留めるような演技である。出演者たちの動き、表情、セリフのアクセントの付け方、それらすべてが、いま行われている芝居が、過去に起こった出来事を説明的に再現する「演技」であることを観客に伝えようとしている。それが『西みがき』の特徴である。そのことは、『西みがき』という映画がほぼ全編「かすやさん」という若い女性の「回想」で構成されていることや、「かすやさん」が関わる「幸子(ゆきこ)さん」という女性が、体験した過去の出来事や見た夢や幻や、を「かすやさん」に対して再現して見せようとする人として描かれていることと深く関連している。


 例えば、映画の冒頭で「かすやさん」は「幸子さん」と歩道橋の上で出会うのだが、出会ってすぐ、「幸子さん」は自分がそこに来たわけを「コンビニに買い物に出て・・」と説明する。それがすぐに、彼女がコンビニでとった行動の「再現」として「演じ」られる。「幸子さん」は、このようなごく日常的な出来事ばかりでなく、死んだ弟「浩一郎」の思い出や、彼女の夢に現れた弟とのやり取りや、夢とも現実ともつかない弟の幻との交渉や不可思議な出来事など、すべてを「かすやさん」に再現して見せ、再現することによって自分の世界を構築しようとする。それらは、彼女の「回想」として観客の前に現前するのだが、それらの「回想」シーンで演じられる彼女の芝居が、過去のリアルタイムでの現前というよりは、すべてが彼女の自作自演の「再現ドラマ」のように演じられるのだ。映画の前半で描かれる通常の「回想」シーンと、後半で彼女自身が「かすやさん」の目の前で演じてみせる(地下の物置から聞こえたという怪しい物音のエピソードや、彼女が手術で摘出した「皮様嚢胞腫(ひようのうほうしゅ)」が「浩一郎」のクローンとして再生したのではないかと語る怪談的なエピソードなどの)出来事の再現とで、描かれる内容にはかなりのニュアンスの違いはある、が、彼女が自身の「再現ドラマ」を演じるその演技の質としては、彼女のテンション以外に質的な違いはないのだ。



 同じことが「かすやさん」の芝居についても言える。この映画のほぼ全編にわたる「かすやさん」の「回想」のそれぞれの場面は、やはり彼女が「浩一郎」や「幸子さん」との過去の出来事を、彼らと一緒に「自ら再現する演技」によって作られているように見える。映画のちょうど半ばで回想される、「かすやさん」が発熱して倒れていた「浩一郎」を背負って運ぼうとする場面に、それは一番よくうかがえると思う。「浩一郎」をうまく背負うことが出来ずに床に倒れこみ横たわった「かすやさん」の顔のアップは、その時の「かすやさん」の顔であると同時に、その時を回想し、再現しようとしている今現在の彼女の顔でもあるように見えるのだ。つまり、今現在、彼女は、その時を、再現している最中なのである。何故、あの顔が、そのように見えるのかは分からない。「浩一郎」を背負おうとして苦戦する彼女の動きがコマ落としで処理されていることや、彼女の心の声が字幕で挿入されるなどの演出が、この場面にノーマルな回想シーンとは異なる醒めた客観性を与えていることも大きいとは思うが、それ以上に、「かすやさん」の表情の演技そのものが、いわゆる「ナチュラル」に向かうものではなく、「再現」の虚構性を指向しつつ、そういう自分自身を見つめてもいるような演技になっているから、ではあるまいか。この「かすやさん」の顔のアップは、そのちょっと前にある「幸子さん」の回想の場面で、「幸子さん」が「浩一郎」を絞殺した直後の、やはり床に横たわった「幸子さん」の顔のアップと共に、この映画の構造と、この映画の演技の、本質に関わる顔だと思う。そういう本質的な顔を、なおかつ艶さえ帯びさせて美しく撮れるところに、この映画と出演者に対する井川耕一郎の演出のスタンスは端的に現れていると思う。


 このように、「かすやさん」の演技と「幸子さん」の演技はまったく同質であり、それは、演劇でいう「エチュード」の演技に似ていると僕は思う。
 演劇のエチュードでは、役者たちが、与えられたある劇的シチュエーションで、即興的に一つの場面を演じ、役者たちはそれぞれの記憶や経験を動員してそのシチュエーションを「再現」する。その芝居は即興による「試作」であって、完成された芝居ではない。が、だからこそ、作られた芝居とも、その人そのものの素ともつかない、演技の本質に関わるあるなまなましさが未成熟さとともに露出するのではないだろうか。『西みがき』で描かれるのは、そういう未成熟な段階でのふたりの若い女性のエチュードだ。それは、身近で親しい、かけがえのない大事な人を亡くしてしまった人たちが、その苦痛を乗り越えるために本能的に選び取った人生のエチュードでもある。この映画で唯一現在進行形で描かれるラストシーンは、そういうエチュードを終えた出演者が、エチュードで使用した小道具のおもちゃを処分している姿である。それは、本来、次の段階へ進むためのすがすがしい手続きであるはずなのだが、夜の闇で燃える炎は、なにかしら見るものに不安を残す。彼女たちは本当に大丈夫なのだろうか?