『死なば諸共』に関する覚書2(井川耕一郎)

 それにしても、一体、なぜ原作『死なば諸共の木刀』の男は心中未遂事件を起こしてまで、遊女を試そうとしたのだろうか。遊女が自分に惚れているのは、単に自分が金持ちだからではないか、と男は疑ったのだろうか。たしかにそれも理由の一つになるだろう。だが、監督の西山洋市と脚本の片桐絵梨子は、男の中にさらに別の理由を見つけているようである。
 西山と片桐が原作の中で特に注目しているのは手紙だ。原作の中で、遊女・若山は十日以上会いに来ない男に手紙を書く。それは、自分の思いをつづったあとに、百も二百も「涙」という字が並ぶものだったという。一体、彼女はどのような姿でその手紙を書いたのか。映画『死なば諸共』には、西山朱子演じる若山が手紙を書く姿が映るが、その姿は目に涙を浮かべながら手紙を書くというものではない。布団に入って待っている客を背にして、若山は立膝で手紙を書く。そして、客がそばにやって来ると、「見ちゃ駄目」と笑ってみせる。つまり、客の相手をしている若山は、手紙の上でしか泣くことができないのだ。
 だが、そんな若山もひさしぶりに岡部尚演じる男(原作では半留(はんる)だが、映画では戸那(こな)という名)と再会したときには、涙を流す。すると、戸那は涙を指先ですくって舐め、こう言う。「お前は、涙をこぼしてくれるんだな」。それに対して若山は「女郎のそら涙というそうな」と無理に微笑んでみせる。
 このとき、若山は「本心と演技の決定的な違いを見極めよ」と戸那に求めている。だが、戸那はそう考えていない。そもそも、若山を最初から愛していたかどうかも疑わしい戸那にとって、本心と演技の違いなどどうでもいいことだ。彼が若山の中に見ようとしているのは本心そのものではないのである(「涙をこぼしてくれるんだな」と言うとき、たぶん、本心もまた演じられて存在するものだと考えている)。彼が興味を持っているのは、書かれた言葉と行動の関係だ。手紙を脚本にして、若山がそこに書かれたことをどれだけ本気で演じられるか。それこそが戸那の最大の関心事なのだ。間違いなく、戸那にとって、吉原は劇場なのである。そして、若山は熱演が期待できる一女優にすぎない。
 と、ここまで見てきて、やっと映画『死なば諸共』の最初のシーン(これに該当する部分は原作にはない)の意味が分かってくる。冒頭で、戸那は使いの少女にぼろぼろの起請文を見せて言う。「若山と俺は生まれ変わっても夫婦となり愛し合うと神々に誓って書いてある」「その名前は血で書いたんだぞ」「3枚同じものを書いて各々一枚ずつ肌身離さず持つ。そして最後の一枚は熊野牛王に捧げる。そうすると熊野神社の烏が三羽、落ちて死ぬ」。きっと若山は三羽の烏が死んだと確信しているだろうが、戸那にとっては、これまたどうでもいいことだ。なぜなら、起請文は永遠の愛の誓いなどではなく、若山に今もっとも演じてもらいたい脚本なのだから。生まれ変わって結ばれることを願いつつ心中する遊女の役――これほど本気度が要求される役は他にはないだろう。