『死なば諸共』に関する覚書3(井川耕一郎)

 さて、原作では、心中未遂事件のあとの展開は次のようになる。半留(映画では戸那という名)は大金を払って若山を請け出すが、いよいよ心中というときに彼女の口から漏れた「ああ、悲しい」の一言が気に入らないと言って、夫婦になるのを拒む。その後、彼は明石という遊女の客となり、その遊び方のうまさは人々が見習うほどのものであった……。
 映画『死なば諸共』の後半の展開は、ほぼ原作の通りである。ただし、映画には最初から、吉原のにぎわいなど存在しない。だから、当然、戸那と明石のことを噂する人々も出てこない。にぎわいの存在しない空洞のような吉原――そこで、戸那と明石は使者の少女を介しておおよそこんな会話をする。


戸那「明石は、……怖いのかな……俺は遊女の芝居を見定めずにいられない性分だからなあ……」
明石「怖いのか? ……ふ、小賢しい。あげてやんなさい。ひどい目にあわせてやりましょう」


 「ひどい目にあわせてやりましょう」という言葉を聞いた瞬間、戸那は若山を超えるような本気度の高い女優に出会ったことを確信したはずだ。明石は決して若山のような本心を持つことはないが、戸那を誘惑し、翻弄するために熱演するだろう。そして、戸那もまた、若山とのとき以上に本気で明石をふりまわすような策を練るにちがいない。では、一体、二人の芝居の行き着く先はどこなのか。空洞化した吉原では、吉原存続のために遊女と客が守るべきルールなど存在する意味がない。戸那と明石の騙しあいに歯止めをかけるものはどこにもないのだ。だとしたら、二人は心中ごっこを演じるかもしれない。今度は偽物ではなく、本物の刃を用いて互いの体を傷つけあうのだろうか。まるで『INAZUMA 稲妻』の主人公二人のように、くりかえしくりかえし……。
 『INAZUMA 稲妻』は、十字が刻印されたカメラのファインダーのような画面によって、観客に「見ることの罪」を意識するようにうながす映画であった(注3)。『死なば諸共』では、「見ることの罪」から一歩踏みこんで、「演出することの暴力」とでも呼ぶべきものを観客は意識することになる。心中の前日、戸那は「てれん・てんてんてん……」と呟きながら、何度も刀を振り下ろす練習をしている。その姿を見ているうち、観客は戸那が若山に対してどんな演出を行うかを期待してしまうはずだ。そして、若山の首すじに刀が当てられた瞬間、戸那とともに絶頂感を味わうだろう。もっとも、その一瞬後に若山が「ああ、悲しい」と呟くことで、戸那は白けてしまうのだが。
 しかし、私には、この後の若山の姿が強く印象に残った。すべてが嘘で、戸那に心中する気などまるでなかったことを知った若山は、「命が、惜しいか」と言うなり、自分の首すじに剃刀をあてる。片桐のシナリオでは、血がほとばしって、近くにいた少女にまで飛び散るとあるが、映画では首に一すじの赤い線がつけられるだけである。だが、そのときの若山の倒れ方が人間の倒れ方ではないのだ。まるであやつり人形の糸がぷつんと切れたかのような倒れ方――若山の剃刀は首ではなく、人形である自分と操る戸那とをつなぐ糸を断ち切ったのだろうか。
 数日後、戸那が若山を車に乗せて故郷に帰す場面でも、若山は人形を演じ続け、無言・無表情を貫き通す。若山は戸那を心の底から軽蔑しているのだろう。だが、ひょっとしたら、人形を演じ続けることで、また役が与えられることを待ち望んでいるのではないか……。そんな思いがふと私の頭をよぎってしまうのは、間違いなく若山を演じた西山朱子が素晴らしいからだ。彼女は物と化す演技を通して、逆説的に人間の複雑さを見事に表現していると思う。


注3:http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060519