大工原正樹の『未亡人誘惑下宿』から演出のコンセプトを掘り返す(西山洋市)

 この映画は設定や筋立てから、一見、マンガ「めぞん一刻」風の「ラブコメディ」に見えるかもしれないが、通常想定される「ラブコメディ」の世界観とは違うコンセプトによって男女の関係を描いている。まず、簡単に言ってこの映画は「ラブストーリー」ではない。登場人物を動かす動力が、正味の「恋愛」ではないからだ。下宿を営む未亡人とそこに下宿する予備校生という主役のふたりを動かす動力になっているのは、未亡人が抱いている「夢」であり、予備校生はその「夢」が掻きたてる幻想によって彼女に惹かれてゆくのだ。この幻想が「恋愛」と混同されることでふたりは結ばれることになるのだが、実際には「恋愛」はどこにも存在していない。「恋愛」そのものではなく、存在しない「恋愛」の幻想によって男女の偽の「ラブストーリー」を組み立てること、それが、この映画における大工原正樹の演出のメインのコンセプトだと思われる。だが、そもそも「恋愛」とは幻想に過ぎないともいわれているのだから、この映画こそが「恋愛」の本質を描いた真の「ラブストーリー」だといえるのかもしれない。いずれにしろ、演出的にはかなり難しいテーマを扱っているこの映画の題材やドラマに対する大工原正樹の演出のコンセプト(つまり題材やドラマへのアプローチの根拠とする考え方)を掘り返しながら、同じ演出家として私なりに作品から読み取ったことを以下の文章で具体的に再構築してみたいと思う。


 まだ若くてグラマーな美人の未亡人(岩崎静子)がやっている下宿屋があって、そこに未亡人目当ての予備校生(斉藤陽一郎)が越してくる。目当てと言っても、未亡人をどうこうしてやろうという下心ではなくて、ただそういうきれいで優しそうな女の人のやっている下宿ならうれしい、といった程度のことらしい。予備校生にとって未亡人は、身の回りの世話もしてくれるし、時には不始末を叱ってくれる優しい姉のような存在である。また未亡人にとっても予備校生は頼りない弟のような存在である。しかしそれは予備校生に限らず、すべての下宿人に対して彼女はそのように存在している。
 この下宿には若い男ばかりが下宿している。アダルトビデオの監督志望の変態男、ナルシストで女好きのきざな美大生、ロックスターにあこがれてエレキギターを振り回している金髪のアホ学生、部屋で薬品調合の実験をしては失敗して爆発騒ぎを繰り返している薬学部の学生、など奇人変人ばかりである。彼らは未亡人に対してサカリのついた若い男としての欲情は示すが、それは彼女の尻を触るとか入浴シーンをビデオで隠し撮りするとかいったことで、ちゃんと恋をしている者はひとりもいない。主人公の予備校生にしてもそうだ。彼は未亡人にあこがれてはいるが、それは美しく優しく健気な女人一般に対するあこがれであって、恋ではない。彼は恋をしていない。例えば「めぞん一刻」のように主人公の予備校生が大家の未亡人に恋をしているとハッキリ分かるような場面や、その恋に悶々とするような場面や、彼の恋心を仲間の下宿人たちからからかわれるといったような場面が、この映画にはひとつも存在しないし、彼の恋心をいやがうえにも燃え上がらせる恋のライバルも登場しないのである。
 この映画の主人公である未亡人と予備校生は、姉と弟のような関係であり、一貫してそのように描かれている。最後に予備校生は未亡人と肉体的に結ばれるのだが、そのシーンは、服を脱いで座っている未亡人の胸に顔を寄せた予備校生が無心に彼女の乳房を撫でている状態から始められている。この、裸のふたりが座ったまま身を寄せている形と予備校生の表情は、何故か年上の女と若い男の交情というより姉と弟のいけない関係というイメージを想起させるのである。あのシーンだけ何も知らずに見せられたら、すぐに「近親相姦」と誤解をするのではないかと思う。ここでふたりが肉体的に結ばれるのは、恋に落ちたから、ではない。恋に落ちたいから、そうなったのである。つまり、この時点でも、ふたりの間に「恋愛」関係は成立していないのだ。そう言えるのは、この映画における「恋愛」の定義による。
 この映画のファーストシーンでは、未亡人と死んだ夫の間にかつてあった「恋愛」が描かれている。彼女と夫の「恋愛」は、そこで語られているように「一緒に同じ夢を見ること」と言い換えられる。その夢とは、「この下宿を世界で一番あたたかい下宿にする」ことだった。この「この下宿を世界で一番あたたかい下宿にするという夢を一緒に見ること」が「恋愛」の定義だとは登場人物の誰も言ってはいない。だが、それがこの映画のドラマの展開の上で核心的な要因になっていることは間違いない。そういう意味で、それはこの映画における「恋愛」の定義として機能しているのである。予備校生はその「夢」にエールを送ることはできるが、「夢」を本当に共有することはできない。「夢」を共有するためには、彼は彼女の夫に成り代わるしかないのだ。それは原理的に不可能だ。不可能だからこそ、それは幻想するしかない。予備校生がこの幻想に向かって動き始めるのは、映画の後半で、下宿を閉鎖するかどうかという問題が未亡人の前に浮上してきた時だ。下宿を閉鎖すれば、彼女が夫と一緒に見た「夢」はそこで終わる。彼女は悩む。未亡人と予備校生が結ばれる直前の夜の遊園地のシーンでは、人生の岐路で悩む未亡人と予備校生が彼女の「夢」について語り合う。彼女は下宿を続けることにしたいという心のうちを打ち明ける。彼は彼女が選択した「夢」に賛同し、ここでふたりがキスをするのだが、それは「恋愛」の成就によってではなくて、予備校生が未亡人の「夢」の実現の手助けをするために、彼女の夫に成り代わるための手続きの第一段階として、であろう。それ以外にあの状況でふたりがキスをする根拠は考えられない。たとえば予備校生が元々いい加減な男として描かれていれば、彼が未亡人の「夢」につけ込んでうまいことキスを奪ってしまった、というふうにコミカルに演出することもできただろう。だが、彼はあくまでもまじめなのである。彼は未亡人の「夢」が掻き立てた幻想に巻き込まれて、彼女の夫に成り代わるという幻想の道に誘い込まれたのだ。『未亡人誘惑下宿』というタイトルの「誘惑」の真の意味がここで浮かび上がってくる。そうか、そういう意味だったのか。誘惑しているのは未亡人ではない。未亡人の「夢」が予備校生を誘惑しているのだ。
 キスを経たふたりは下宿の未亡人の部屋に戻る。未亡人が仏壇の夫の遺影を倒して伏せてから、「わたし、あなたのこと・・」と言いかけると、予備校生は「言わないでください・・分かってますから」と答えるのだが、一体、未亡人は「あなたのこと」をどう思い、予備校生は何が「分かっている」というつもりだったのだろうか。未亡人は「あなたのこと」を「夫に成り代わって欲しい」と言いたかったのだし、予備校生はそのことを「分かっている」といったのではないか。その後、ふたりが交わるシーンで、彼女が思わず大きな声を上げそうになって恥ずかしがったとき、彼が「みんなに聞かせてやりたい」と言ったのも、恋愛成就の凱歌としてではなく、彼が未亡人の夫に成り代わったことで彼女の夢は存続する、つまり、この下宿は閉鎖されることなく存続するのだということを下宿生皆に伝えたいがためだろう。
 予備校生は、亡くなった夫に「似ている」と他の下宿生にいわれ、また未亡人本人もそう思っていた。このことは予備校生が彼女の夫に成り代わるのではないかという予期を観客に与えた。また、そうなりうるかもしれないという幻想を未亡人や予備校生に与えていた。そしてふたりは肉体的に結ばれたが、予備校生が未亡人の夫に真に成り代わることは出来ないだろう。これより先に、未亡人が下宿をたたもうとしていることを知った下宿生たちがそれを思い留めさせようと、死んだ夫に変装させた予備校生をけしかけて眠っている彼女の耳元で「下宿をたたんではいけない」と囁かせるという馬鹿げた作戦を実行するのだが当然失敗に終わったのと同じことで、予備校生は、最初からそうだったように、未亡人の夫に面影が似ているというだけの弟のような存在でしかありえない。ラストで未亡人は呆れた顔をして「・・やっぱり下宿をたためばよかった」と呟く。それは、下宿生たちが朝食のおかずをめぐって毎度のように大騒ぎを始めたから、というだけではない。予備校生との情事から一夜明けた未亡人が、予備校生が死んだ夫になりかわることは出来ないのだということを諦めと共に自覚したことの表明なのだ。それは変えようのない現実であって、この映画の作り手たちは、甘い認識で誤った幻想をそのまま放置することなく、それが偽のラブストーリーに過ぎなかったというその現実を見ようとしている。大工原正樹は、そのようなシビアな現実認識に立ってこの映画を演出している。それは、例えば『赤猫』などの、この映画とは真反対の深刻な映画を演出するときの態度と何も変わりはないのだ。一見脳天気なラブコメディに見えるこの映画でも、けして口当たりがいいだけの甘い演出などしていない。大工原の技術的なうまさだけを見ては足りない。大工原の技術的な確かさは、演出者としての厳しい、あるいはまっとうな現実認識に裏打ちされているということをまず見なければならないと思う。
(それから、「夢」の演出は、大工原正樹の映画の重要なテーマのひとつかもしれないということを付け加えておきたい。)