『のぞき屋稼業 恥辱の盗撮』について(2)

 さて、このあたりで西山洋市の「『のぞき屋稼業 恥辱の盗撮』で描かれなかった顔についてみんなに聞きたい」という問いかけにちょっと答えておきたい。西山は連続殺人鬼の井上がひとを殺す二つのシーンについてこう書いている。「この映画の眼目が『犯人探し』ではない以上、どちらのシーンでも犯人の顔を伏せる物語上の必要はない」。なるほど、この作品は「犯人は誰か?」という謎を最後になって明かすことを目指したドラマではない。しかし、「犯人の顔を伏せる物語上の必要がない」わけではなかった、と私は考える。
 まず、冒頭の殺人シーンについて。
 私がここで犯人の顔を見せなかったのは、犯人である井上が被害者の血で壁に「サムバディ、ストップ・ミー」と書いたためではないか、と思う。一体、なぜ井上は日本語で「誰か私を止めてくれ」と書かなかったのか。たぶん、「私」と書いてしまうと、普段の自分と連続殺人鬼の自分とを区別することができなくなってしまうからだ。井上は自分の中にゆがんだ欲望があることを自覚しながらも、連続殺人鬼である自分を否認したかった。その屈折した心情が英語でメッセージを残すという行為となったのだろう。そういうふうに井上についてあれこれ考えているうち、私には冒頭シーンの彼の顔がだんだん見えなくなってきた。井上の自己否認の強さが私の想像力に影響を及ぼしたということなのだろうか。そこで、彼の顔を伏せるような描写になったわけである。
 もう一つの殺人シーン――青井の仲間・イクオが青井と間違われて殺されるシーンについて。
 私がここでも井上の顔を伏せたのは、イクオを殺すときの彼の顔が見えてこなかったからだった。井上が青井を殺そうとするのは、ゆがんだ性的欲望に突き動かされてのことではない。青井の脅迫におびえて、自分が写っている写真のネガを奪うためだ。殺人の動機がひどく人間的なのだから、まちがってイクオを殺すときの顔も連続殺人鬼のときの顔とはまるでちがうだろう。おそらくその顔はあまり恐くないのではないか。それで、私はイクオを殺す場面でも井上の顔を書かなかったのだと思う。
 西山は「友人を殺された青井の憎しみと復讐心を観客の中にもエモーショナルにかきたてる効果の上で」も、井上がイクオを殺すときの顔が必要だったのではないかと問うている。たしかにそういう考えもあるだろう。しかし、シナリオを書いているときの私はそんなふうには考えていなかった。私がシナリオを書きながら追っていたのは、ハードボイルドの探偵の中にある無意識の欲望だった。報酬以上にやりすぎてしまいたいとたえず欲している欲望*1。やりすぎるきっかけを獲得するためなら、仲間の一人くらい死んでもいいと思っている欲望。私が書こうとしていたのはそういう無意識の欲望だった。だから、私はイクオの死に対して冷淡であったし、青井の復讐心も本気で信じてはいなかった。


 ところで、西山は『のぞき屋稼業 恥辱の盗撮』の井上による殺人の場面を二つとしているが、実際には三つある。ドラマの出だしで青井が浮気調査をしているときに町で出会った女性・河野ひろみの殺害場面がそれである。実は私はここで井上の連続殺人鬼としての顔を見せてはどうだろうかと考えていた。
 結局、シナリオには河野ひろみ殺害シーンは書かれなかった*2。もし彼女が殺されるシーンをドラマに組み込むとしたら、青井が頭の中で思い描いたイメージとして書くしかなかったろう。だが、青井にとり憑くイメージの中に河野ひろみが出るのはまずいと私は考えていた。というのも、青井がとり憑かれてしまう女性のイメージは、盲目のヒロイン・理恵だけでなければいけなかったからである。
 青井が少年の依頼を引き受けたのは、盲目のヒロイン・理恵に興味を持ったためだった。その後、彼は井上の書斎で裸の理恵が写っているポラロイド写真を発見し、理恵が井上に犯され、殺されるイメージにとり憑かれてしまう。青井は井上の欲望をのぞき見た結果、井上と同じように理恵に性的欲望を感じるようになってしまったのである。要するに、青井の報酬以上にやりすぎてしまいたいという欲望に火をつけたのは、連続殺人事件の犯人が井上であるという事実ではなくて、理恵が井上の欲望の対象となっているという事実であった。
 青井の無意識は「青井―理恵―井上」という幻の三角関係をつくりあげ、理恵を井上から奪おうとする。彼の意識が自力で連続殺人事件の犯人を追いつめたいと思ってしまうのは、そのためだ。だが、イクオの死の直後、理恵と会った青井は、彼女が叔父である井上をひそかに愛していることを知ってしまう。
 となると、青井の無意識が望むことはもうたった一つしかない。理恵と井上の仲を徹底的に引き裂くこと。青井は理恵を使って、井上に連続殺人鬼であることを自白させようとするが、それは表向きの目的でしかない。本当の目的は、理恵に「わたしを愛しているのなら、真実を話して」と言わせることで、叔父と姪の近親相姦の愛を暴露して、二人が二度と一緒に暮らせないようにすることであった。もっとも、二人の仲を引き裂いたところで、青井の無意識が完全な満足を得ることはないのだが。


 最後に監督の大工原正樹について二点だけ記しておきたい。
 一つ目はドラマの後半にある理恵が井上に自白を迫るあたりからの長い芝居について。
 大工原はこのシーンについて「撮っても撮っても終わらない、マラソンのようでした」と書いている。しかし、初稿シナリオでは、この部分の芝居は決定稿より五ページくらい短くて、芝居の終わり方もかなり違うものだった。たしか、心中の用意をしている理恵を青井が止めようとしているところに井上が現れ、青井と井上がもみあっているうちに、注射針が井上に刺さって死んでしまうという展開だったように記憶している。
 シナリオの直しの打ち合わせのときに、大工原が問題にしたのはこの長い芝居の終わり方だった。「井上が自分で注射を打って自殺するようにして下さい」と大工原は私に言ったのだった。しかし、そういうふうに直すとなると、青井をまた部屋の外に出して、理恵と井上の二人芝居を書きたすことになる。それで私は「芝居がどんどん長くなってまずいんじゃないかなあ」と言ったのだが、大工原は「長くなってもかまいませんよ」と言って直しの方針を決して変えようとはしなかった。
 結果として、大工原の言うように直してよかったと思う。井上が自殺することで青井は初稿よりも厳しい現実を突きつけられることになったし、自殺場面を書きあげた瞬間、私は「ついにやったぞ!」とうれしくなってしまった。なぜそう思ったのかは自分でもよく分からないが、以後、私は時々、自殺シーンを書くようになってしまっている。たぶん、このときに感じた達成感をもう一度味わいたいからだろう。
 また、これは後になって聞いたことだが、大工原が『風俗の穴場』のラスト近くの14分の芝居に挑戦してみようと決意したのは、この作品で長い芝居を撮った経験があったからだという。そういう意味でも、『のぞき屋稼業 恥辱の盗撮』は大工原のフィルモグラフィーの中で重要な位置にあると言えるだろう。
 大工原について記しておきたいことの二つ目は、ラストシーンに関することである。
 『のぞき屋稼業 恥辱の盗撮』のラストは、青井が連続殺人鬼の犠牲者・河野ひろみにうり二つの女性とラブホテルでセックスしているところで終わる。これはシナリオに書いたとおりの展開なのだが、大工原が完成させた作品では、セックスをしている最中にどこからかピアノの音が聞こえてくる。そして、ふいにピアノを弾く女性の手が映って終わりとなるのである。
 私は最後に映るピアノを弾く手を見たとき、ぞくっとしたのをおぼえている。それは、城野みさ演じる理恵がドラマに最初に登場するシーンで見たはずのカットだった。とはいえ、青井は理恵がピアノを弾く姿を一度も見ていない。なのに、なぜだかここで青井は理恵のピアノを弾く手を思い出してしまうのだ。
 一体、このピアノを弾く理恵の手は何を意味しているのだろう。それは、青井が無意識の欲望を実現するために次々とひとを殺していったことを責めているのだろうか。それとも、すべてを赦す、と言っているのだろうか。おそらく、そのどちらでもあるのだろう。理恵の手は青井に、あなたを赦します、と告げているにちがいない。しかし、青井は理恵の手を今後もくりかえし思い出してしまうだろう。そのたびに彼は自分の犯した罪を責め続けなくてはならないのだ。
 大工原が撮ったラストは、のぞき屋としての青井に死の宣告をしているようなものであった。しかし、何とも甘美で残酷な死の宣告ではないか。今回、ひさしぶりに『のぞき屋稼業 恥辱の盗撮』を見直したが、私は今もやはりこのラストが好きである。    

*1:青井が子どもの依頼をたった1500円で引き受けてしまうという展開は、こうすれば、当然、報酬以上にやりすぎてしまうだろうという半ばやけくそというか開き直りの発想から生まれたものである

*2:殺害後の現場の写真が数枚示されるだけになっている