『のぞき屋稼業 恥辱の盗撮』について(1)

 大工原正樹の自作解説を読むと、役者一人一人の姿が生き生きと描かれていて、昔のことを実によくおぼえているものだな、と感心してしまう。ところが、私はというと、シナリオを書いていたときの記憶がほとんどないのだ。いや、積極的に忘れようとしてきたと言った方がいいだろう。シナリオを書くために調べた事柄や、没にしたアイデアで頭の中がいっぱいという状態は、精神衛生上、あまりよろしくはない。というわけで、シナリオを書き終えると、私はさっさと頭の中を空っぽにしようと努めてきたのである。
 それでも、ひさしぶりに『のぞき屋稼業 恥辱の盗撮』を見直して、思い出したことがいくつかあったので、大工原の自作解説の補足のようなことを記しておこうと思う。それから、西山洋市が「『のぞき屋稼業 恥辱の盗撮』の描かれなかった顔についてみんなに聞きたい」と尋ねているので、そのことについても少しだけ答えてみたい。


 大工原が書いているように、『のぞき屋稼業』シリーズは、全部で9作あり、そのうち、1作目から7作目まではのぞき屋グループが活躍するコメディタッチのものだった。私はそのコメディ路線の中では1作目(監督:後藤大輔)と7作目(監督:常本琢招)のシナリオを書いていた。
 コメディ路線の『のぞき屋稼業』で、面白くできているなあ!と感じたのは、4作目の『のぞき屋稼業4・外伝』(監督:西保典、脚本:金田敬)だけだった。これはのぞき屋グループ結成のいきさつを描いたもので、シリーズの定型・定番を笑い飛ばすパロディとなっていたし、のぞきの欲望について徹底的にこだわった傑作でもあった。
 たぶん、『のぞき屋稼業』シリーズは、4作目で終わっていればよかったのだ、と思う。ところが、その後もコメディ路線は7作目までだらだらと続き、さらにハードボイルド路線で2作撮られることとなった(そして、シリーズは『新・のぞき屋稼業』として続いたらしいが、新シリーズについては未見なので、何とも言えない)。
 プロデューサーと監督の大工原から、『のぞき屋稼業』の9作目のシナリオを依頼されたとき、正直に言うと、私はとうに死んだシリーズを甦らせるのはムリだと思っていた。そういう後ろ向きの気分は、『のぞき屋稼業 恥辱の盗撮』の内容にもかなり反映していると思う。主人公の青井がのぞき屋なんてやめたいと何度か呟き、連続殺人鬼の井上が自分を罰したいと言うあたりをひさしぶりに見直して、私は自分の気持ちを思い出して嫌になった。みんながシリーズの再生を考えていたときに、私一人だけ葬式を考えていたようなものだ。
 本当は断った方がよかった仕事なのかもしれないが、そうしなかったのは監督が大工原だったからだった。大工原正樹のシナリオを書いてみたいという気持ちが後ろ向きの気分に勝ったということである。


 『のぞき屋稼業』9作目のシナリオの打ち合わせのときに、プロデューサーからまず言われたのは、ハードボイルド路線で行くことだった。8作目の『のぞき屋稼業 夢犯遊戯』のシナリオは島田元がすでに書きあげていた。そのワープロ原稿を渡されて、主人公についてはこれと同じ設定にしてほしい、と言われたことをおぼえている。
 その他に、誰か別のひとが書いた9作目のプロットも渡されたはずだ。そのプロットは事情があって一切使えないとのことだった。しかし、大工原はヒロインが盲目であるという設定にはこだわりがあったようで、プロットに書かれたこの設定だけは使いたい、と主張していた。
 死体写真の話も打ち合わせのときにプロデューサーから出ていたと記憶している。たしか連続殺人鬼を出すという話をしているうちに、殺人現場の写真なんかネタとして使えないだろうか、とプロデューサーが言い出したのだ。それで、タイにはそういう死体写真ばかり載せた雑誌があるらしい、という話を私がしたのだった(もっとも、死体写真のネタはあとで没になった。私が調べたことを事細かに話したら、プロデューサーは気分が悪くなってしまい、死体写真ネタはオリジナルビデオでやるには残酷すぎる、と判断したのであった)。


 私はハードボイルドについてはあまりよく知らなかった。ハードボイルド小説は数冊しか読んだことがなかった。『ロング・グッドバイ』は高校のときから大好きな映画だったが、私の興味は原作者のチャンドラーよりも監督のアルトマンの方にあった。
 8作目のシナリオを書いた島田元はハードボイルドについてとても詳しかったので、電話をかけてみた。島田はローレンス・ブロックのマット・スカダーものを参考にして『のぞき屋稼業』を書いたと教えてくれた。それで、『過去からの弔鐘』、『一ドル銀貨の遺言』、『聖なる酒場の挽歌』などを近所の本屋で買って、あわてて読んだ。
 今、『のぞき屋稼業 恥辱の盗撮』を見直してみると、とりわけ『過去からの弔鐘』の影響がかなり大きいことに気づく。探偵が真犯人の牧師に自殺して罪をつぐなうようにアドバイスする場面や、ラストで死んでいったひとたちのことを思い出しながら教会のロウソクに火をともす場面などは、ドラマを考えるとき、重要なヒントになっていたはずだ。


 主人公の設定はすでに決まっている。盲目のヒロインと連続殺人鬼を出すことも決まっている。それに、ハードボイルドには確固としたパターンのようなものがある。だとしたら、すぐにシナリオが書けそうなものなのに、私は毎度のことながらぐずぐず迷っていた。ドラマを書くには、ドラマのパターンを知っておく必要があるかもしれない。しかし、パターンを知っているからドラマが書けるかというと、そうでもないのだ。私には、ハードボイルドを面白がる私なりの視点が必要だった。
 私は島田元が書いた『夢犯遊戯』のシナリオを何度か読み返し、三太という脇役に注目した。彼は頭がちょっと弱い男で、主人公の青井が住むアパートの近くでいつもバットを振っているという設定だった。この三太という脇役が本筋の事件にからむのは、たった一度だけだ。それも、犯罪組織の一人が青井の部屋を荒らす前にバットで参太を一発殴る程度でしかない。にもかかわらず、三太という登場人物がドラマにとって必要不可欠に見えるのはどういうことなのか。
 あれこれ考えたすえに私が出した結論はこうだった――。ハードボイルドとは、受け取る報酬以上の仕事をしてしまうというドラマのことだ。探偵が仕事をやりすぎてしまうのは、途中で彼または彼の仲間の身体やプライドを傷つけるような出来事が起きてしまうからである。たとえば、『夢犯遊戯』の場合、主人公の青井のかわりに、三太の身体やプライドが傷つけられる。そして、そのことがきっかけとなって、青井は仕事をやりすぎてしまうわけである。
 しかし、なぜ探偵は途中で身体やプライドが傷つけられるような出来事にぶつかってしまうのだろうか。本当のことを言えば、探偵の中には、仕事をやりすぎてしまいたいという欲望が最初からあったのではないか。要するに、探偵やその仲間の身体やプライドを傷つける出来事は、探偵自身の無意識がやりすぎるきっかけを欲して、強引に引き寄せたものだとは考えられないだろうか。
 『のぞき屋稼業 恥辱の盗撮』はそんな仮説をもとに産みだされたドラマなのであった。