神代辰巳論4(井川耕一郎)


 先に私は神代の映画の語り手は幽霊だと記したが、語り手の幽霊性を強調したでたらめで楽しい作風は、八〇年代に入るあたりから次第に消え、ごく普通の映画の語りに近いものになっていく。それでは、神代の映画から幽霊じみたものはなくなってしまったのだろうか。私には、この時期の神代を理解するうえで、「月刊シナリオ」80年4月号に掲載された宇田川幸洋の『少女娼婦 けものみち』の現場ルポ「神代シネマフィールドノオト」はとても重要なものに思える。このルポは、神代映画のあの独特の面白さはどのように作られていくのかを知りたいという情熱にあふれた素晴らしいものだ。ここでは、リハーサル風景をルポした部分から二ケ所だけ引用してみたい。

 まず、にっかつ芸術学院の教室をつかってシーン15林の中のリハーサルがはじめられた。(略)『るっせえ! 何で会ってくれないんだよ』と叫んで外男が肩先でサキに激しくつっかかる。右、左、右……と。サキがよける。この攻撃とよける動作がうまく合わない。
 「2度当たって3度目によけるか……? いや、段取りはやめよう!」と神代監督。
 体を下げてよけて、最後にサキがしゃがむことにする。
 「中途半端ではなく、全部しゃがめ!」
 尻を深く落として安定したかたちを得たサキが、それからゆっくり立ち上がり、外男を睨める、というかたちができあがってゆく。立ち上がった彼女の、豊かな髪の波の下からもたがった面には薄笑いの表情が姿を現し、ここで一つの転換が生まれた。
 その後、サキは四つん這いになり、肩で外男のスネにぶつかり、犬が小便をひっかけるかっこうを外男に対してする。外男はそのサキの前にヘタヘタとしゃがむ。
 このシーンは、四つん這いのサキに外男が飛びかかり、サキが抵抗するのをやめて自分から上衣を脱ぎ、セックスをするところまでをやった。最初の歩きだすところから通しで何度もくり返された。神代監督はふたりの役者の動きに合わせて、サッカーのジャッジのように動きまわり、見守る。
 「俺をカメラだと思え!」

 シーン17遊子のアパートは、ならんで壁によりかかっている遊子とサキの会話。そのままのポーズで対話を続けると、まったく動きがないことになる。
 『蜘蛛の巣張ってんのかもね』というところで神代氏は「蜘蛛の巣の格好をしてみろ」と(遊子役の)水島さんに注文を出した。神代氏の発する命令形は語尾が軽くとび上がり、独特のやさしさが聞こえる。それにしてもこれは難問。わきで見ていた(外男役の)無双氏も「どうやんのかな」と身をのりだす。結局、図2のように遊子がサキをまたぎ(図は省略)、『獲物をつかまえてんの』という台詞とともにサキの首をぐっと抱きよせる動作になった。


 私がこれを読んで気になったのは、なぜ神代は「俺をカメラだと思え!」などと言ったのだろうかということである。私はてっきり、神代独特のあのぐにゃぐにゃした役者の動きは、カメラなど意識せずにのびのびと作られたもので、それをどうフィルムに収めるかはカメラマンの腕前におまかせなのだろうと思っていたのだ。だが、彼は役者に向かってカメラを意識せよと呼びかけている。問題なのは、呼びかけられた役者が映画出演の経験があまりない者ということだ。仮に神代の目をカメラだと思っても、自分がどう映るかまで理解できるとはとうてい思えない。
 だが、この神代の言う「カメラ」を幽霊の目であると考えてみたらどうだろう。宇田川幸洋のルポを読んでいると、神代はたえず役者の間近から指示を出す。しかも、そのときの彼の声は「語尾が軽くとび上がり、独特のやさしさが聞こえる」という。これは絶対的な力をもつ神の声ではない。たぶん、「どうだい、ちょっと魂を宙にさまよわせて自分の姿を眺めてごらんよ」と誘うような幽霊の声ではないだろうか。
 私の見るところ、八〇年代以後の神代の映画にも、幽霊じみた部分はたしかにある。だが、それは語りのレベルには現れずに、登場人物のあり方のうちに現れるのだ。結論だけを先に言ってしまうと、初期の神代の登場人物は幽霊となり、日常生活から弾き出てしまうが、八〇年代以後の登場人物は日常生活の中で気がつくと幽霊になってしまっているのである。この変化をもたらした原因はいくつか考えられるが、その一つとして、荒井晴彦と組んだことがあげられると思う。荒井の書く脚本の特色は一言で言ってしまえば、『千のプラトー』の中で定義されているヌーヴェル(中短編小説)のようなものだ。「『何が起きたの? いったい何が起きたのだろう?』という問いを中心にすえて全体が構成されるとき、ヌーヴェルは生れるのである」。荒井の登場人物は自分の身に何が起きたのかが分からない。だから、トイレの後の手のふき方に全共闘体験のようにしつこくこだわり、またその一方で全共闘体験にトイレの後の手のふき方のように真剣にこだわって、我が身に本当は何が起きたのかを知ろうとするのだ (TV作品『盗まれた情事』(95)。脚本は高木功と共作)。神代との比較で言うなら、歌の使い方に荒井晴彦の特徴がよく出ているだろう。神代にとって、歌は幽霊になるための手段であり、何よりもまず登場人物が歌うためのものであった。だが、荒井にとって歌とは、登場人物がそれを聞き、なぜ自分はこの歌にとりつかれてしまったのかを問うためのものなのだ。
 『嗚呼!おんなたち 猥歌』(81)の冒頭でアナーキーが歌う「タレント・ロボット」には荒井らしさが出ていたように思う。だが、それにしても、主人公の内田裕也の身には一体何が起きてしまったというのだろう。今回、ビデオで再見して、私は出だしのアナーキーに熱狂するファンの間からのぞいて見える内田裕也の顔にぞッとした。あれはどう見たって幽霊の顔である。そして、物語が進むにつれ、内田裕也がとうに死亡しているという確信は深まっていった。幽霊だから派手に交通事故を起こしても、ケガをしないのだ。さらに言うなら、私には彼が死んだ日も特定できる。たぶん、その日は去年の息子の誕生日にちがいない。内田裕也はプレゼントを手に家に向かう途中で事故死しているのだ。彼がケーキのローソクの数を一本間違えているのは、そのためである。それにしても、やっかいなのは、彼自身がその事実をまるきり忘れているうえに、周囲の人間が誰も彼が死んでいることを知らないでいるということだ。内田裕也は生きているときのように女とセックスをしてみる。だが、中村れい子と角ゆり子のレズシーンのような歓喜は彼には訪れない(ところで、このレズシーンのときの中村れい子の表情は実にすばらしい)。彼はライブで尻を出し、オナニーをしてみる。だが、そこにはアナーキーのボーカルが唾を吐くときのような熱気は見られない。
 分かりやすい言い方をすれば、『嗚呼!おんなたち 猥歌』の内田裕也は、「フリー・アズ・ア・バード」におけるジョン・レノンのような存在なのだ。ただし、内田裕也演じる男は、誰に追悼されることもなく、自分が死んだという事実も知らぬまま、地上をさまよい続けるほかない。まったく、何という悲劇だろうか。おそらく付き人である安岡力也は、映画の後半で内田裕也を抱きかかえて、公衆電話のそばまで連れていくとき、その体のあまりの軽さに内心驚き、ひょっとしたら幽霊では……と思っていたかもしれないというのに。



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