『明治侠客伝 三代目襲名』1(三島裕二)

 この映画のラスト、鶴田浩二は組の敵である星野組の元に単身乗り込む。星野組に入るなり、鶴田は星野を日本刀で一突きにする。近くにいた唐沢(鶴田にとっては恋敵である)が身の危険を感じて逃げ出す。必死の形相で逃げる唐沢が、後ろを振り返るとそこには、右手に日本刀、左手に拳銃を掲げた格好でこっちに走ってくる鶴田浩二がいる!やがて鶴田は、唐沢に追いつき、唐沢の腹部に日本刀を突き立てた。
 このシーンを見ると僕は「カッコイイな。なんてカッコいいんだ」と単純に興奮してしまうのだが、しかし、このシーンは同時にある疑問を抱かせる。一体どうして鶴田浩二はあんな姿で走っているのだろうか。考えてみると変な姿である。ちょっと不恰好でさえある。そもそも、あんな格好では、早く走れるはずがないように思える。特に変なのは拳銃の存在だ。実は、唐沢を走って追いかけている時点で、弾を全て撃ちつくしているのだ。だったらそんな無用な拳銃は、さっさと捨ててしまえば良いではないか。事実、やくざ映画などでは、弾切れの拳銃を敵にむかって投げつける場面をよく見かける。しかし、鶴田浩二はその無用の拳銃をいつまでも握り締めたまま走り続け、唐沢に追いつくにいたり、ようやく拳銃を投げ捨て、両手で日本刀を握るのだ。


 実は鶴田浩二は、彼自身がラストで見せた前述のような格好に類似した格好を、映画の中盤においてすでに見せていたことを、映画を見終わった僕たちは思い出すだろう。それは鶴田浩二藤純子が、橋のたもとで始めて会うシーンにおいてである。
 藤純子は、やって来た鶴田に故郷の土産として果物(あれは桃だろうか?)を手渡す。鶴田は藤から受け取った二つの桃を、両手にそれぞれ一個ずつ乗せてみせるのだ。その鶴田の格好は、両手で持っている点、腕を少しだけ高く掲げるようにしている点において、ラストでみせるあの姿に似ている。
 桃を慎ましやかにどこかに仕舞い込むのでもなく、かといって、それを何か誇らしげに顕示してみせるのでもなく、その桃は極めて中途半端な位置にあるのだが、しかし、鶴田浩二藤純子もその事に何の違和感も抱いていない様子である。これはとても変だ。桃を手渡すという行為において能動的に動いているのは明らかに藤の方なのだから、まず疑問に思うべきは藤の方であろう。ここで藤順子は一体何がしたかったのだろう?藤純子は岡山からわざわざ持参した桃を、風呂敷にも包まずに手渡しているのである、それも二つというこれまた中途半端な数を。


 拳銃を握る格好と桃を持つ格好が、共によく似ていること。その拳銃が弾切れであったことを合わせて考えてみた時、この映画において桃は食べられることを目的とされていない、とは考えられないだろうか。
 映画のラストにおいて拳銃を持って走る鶴田にとって、少なくとも拳銃を持っている目的は撃つためではないことは明らかだ。だとしたら、桃もまた食べるために持たれている訳ではないのではないだろうか。その証拠に、藤と鶴田が二人で桃を食べるシーンはあって、何の不思議も無いし、むしろあって然るべき場面だとさえ思われるのだが、桃が食されるシーンは映画の中に存在しない。
 この映画において桃は、鶴田の両手に持たれるためだけに存在しているのではないだろうか。だとしたら、桃が包まれる事なく、二つ手渡されたことも理解できる。そして、藤純子は、桃を二つ手渡すことで、鶴田の両手を塞いでしまうこと、鶴田の手の平の自由を奪ってしまうことを意図していたように思えるのだ。


 桃を手渡すエピソードからしばらく後、藤と鶴田はこの場所で再び対面するのだが、その場面での藤のアクションは、鶴田の両の手の平の自由を奪おうとする藤の意図を、より発展させた形で示している。
鶴田浩二が木屋辰組三代目を襲名するその日に、唐沢に身請けされることが決まった藤純子は「もう一度だけ、会いたい」といって、二人は橋のたもとで再会することになる。ここでの藤純子はシーンが始まったと同時に、鶴田浩二にしなだれ掛かり、彼の両腕をかかえ込むようにして鶴田に抱きついていくのだ。そして鶴田は、「堪忍してくれ!堪忍してくれ!」と言いながら、体を揺すらせるのだが、藤は決して鶴田から離れようとはしない。ここでの藤は、鶴田の腕の自由を奪おうとしているように見える。
 物語に即して言えば、ここでの鶴田浩二は藤と結ばれることよりも木屋辰組の三代目を襲名することを選んでしまったことを詫びているのだが、それは直接的には、自分に抱きつくのを「勘弁してくれ」と言っているのだ。鶴田は自分の体にまとわりつくように抱きついてくる藤純子にたいして、離れてくれと言っているように聞こえてくる。このシーンで藤純子が鶴田に対して行う、鶴田の両腕を抱え込むように抱きつく動きは、前の場面での桃のやり取りと同様に、鶴田の手と腕を封じてしまいたいという藤の願望の現われであり、ここでの鶴田は、体を揺すらせることによって、そのような藤の願望に抗おうとしているようだ。


 はたして藤純子は自ら意識して、鶴田の手と腕の自由を奪おうとしたのだろうか。恐らく、藤はそんなこと露ほども思っていなかっただろう。好意を寄せる相手の事を想い、彼女は岡山の実家の庭の桃を捥いで来たに違いない。にも拘らず、藤の桃を渡す目的が手に平の自由を奪おうとすることにあるのならば、その目的とは藤純子の無意識の目的だということができるのではないだろうか。藤は無意識に鶴田の手と腕の自由を奪おうとしていたのだ。これらのシーンが喚起的であるのは、二人の行動に、二人が意識してはいない身体の自由を巡るやり取りを僕たちが見ているからではないだろうか。


 藤が無意識に鶴田の手と腕の自由を奪おうとしていること。この映画での藤と鶴田のやり取りをこのように見る視点を、とりあえず「身体表現的、無意識的」視点と名づけてみよう。そして、藤の行動を鶴田への思慕の情だと理解する視点を「言語表現的、意識的」視点と呼んでみる。
「身体表現的、無意識的」なレベルで見ること、つまり、二人の身体の動きに注視してみることによって、この映画は僕たちに思ってもみなかった意外な表情をみせてくれる。その表情をつぶさに追ってみるのは、この映画を単に仁侠映画のルーティンとして消費してしまうよりも遥かに刺激的な体験である。
以下で鶴田と藤が映画の中で、その身体をどのように動かしているのかを、具体的な物語に即しつつ個別に見ていきたい。


 まずは鶴田浩二について。
 鶴田浩二は木屋辰組のメンバーであり、ヤクザものである。しかし、鶴田は決して、喧嘩っ早い荒くれ者といった感じではない。「言語表現的、意識的」なレベルで言えば、彼は非常に理性的な人物であり、暴力的にことを解決することを常に避けているように見える。しかし、暴力を振るわないのは、必ずしも彼自身の意図によるものではない。この映画の冒頭部分で示される鶴田の置かれた状況は、鶴田が自身の意思を基に積極的に行動すること、積極的に身体を動かすこと、つまりは暴力を用いることを禁じているかのように見える。
 鶴田の所属する木屋辰は、浄水所工事の資材納入を巡って、星野組と対立関係にあり、星野たちは木屋辰組に執拗な嫌がらせを行っていて、映画のオープニングは木屋辰の二代目が星野組の人間によって刺されてしまうところから始まる。二代目を刺したのが星野組であることは明白なのだが、確かな証拠がない。そのために鶴田たちは反撃に行くことが出来ないで、じっと耐えざるを得ないでいる。そして、それは二代目の教え――商売に絡んだ喧嘩は、たとえ売られても買うたらいかん――によっても禁止されている。
 また、鶴田たちが喧嘩沙汰を起こすことは、星野組に攻撃の口実を与えることになるのであり、鶴田たちは足元をすくわれないように慎重に行動することが求められている。星野組に討ち入ろうとする木屋辰の部下達を鶴田が諌めるシーンでは、自らの置かれた状況を鶴田自身が自ら言語化している。「俺達はジーッとたえな、アカンのや」
このような鶴田の身体を拘束し、自由な運動を妨げようとする外的要因は、上で見たような木屋辰外部の要因だけではなく、木屋辰内部の要因さえもが鶴田の拘束に加担するよう組織化されている。それは木屋辰組、三代目を巡る組織内の緊張関係である。
 二代目が襲撃にあいつつも、何とか一命はとりとめたという映画前半部分において、木屋辰二代目がまだ生きているにも関わらず、鶴田は三代目の最右翼と目されてしまっている。そのような状況で自ら積極的に星野組との抗争に乗り出す事は、鶴田が三代目襲名に名乗りを挙げたと見なされかねない状況なのだ。さらに、二代目の息子、春ボンは三代目の座に就くことに意欲的な素振りを見せている状況で、二代目から自分が死んだら春ボンの面倒を見てくれと頼まれている鶴田は、春ボンの手前もあり、さらに動きづらくなっている。この状況では、鶴田に出来ることは、ただ「ジーッ」としていることのみだろう。
 このように、この映画の前半において鶴田浩二を取り巻く組織内部、外部の環境が、彼自身の自由な身体の動きを妨害するもととして、彼の周りを幾重にも取り巻いていると言うことができるだろう。そして、その中心近くで、彼の体に密着することで、物理的に直接的に彼の動きを封じるものとして、藤純子がいるという図式ができあがる。
 藤純子は鶴田の腕と手の平を拘束することで、彼に暴力を振るうことを出来なくしているのだ。


 だからと言って、事態の推移を傍観しつづける訳にはいかない。そこで鶴田は、ある非常にアクロバティックな解決法を見出すだろう。それは、自らの身体を積極的に動かせないのだとしたら、その消極性を積極性に反転させるという戦略だ。そのことが端的に出ている場面は野村宅でのエピソードだ。
 星野の手先から襲撃にあい、野村組に納めるセメントを川に投げ込まれてしまった鶴田は、野村演じる丹波哲郎の家に向い、セメント納入が遅れたことを直接詫びようとする。しかし、丹波哲郎鶴田浩二に会おうとはしない。「事情がどうであれ、工事に遅れを来たすことは許されない」とする丹波に対して鶴田は「会うと言ってくれるまで、ここで待たせて貰いまっせ!」といって、雨の降る中、玄関先でいつまでも待ちつづける。
 雨の中をたち続ける鶴田を捕らえた幾つかの固定ショットと移動ショットを組み合わせで構成されているこの場面は、鶴田が両腕を硬く組んでいるのを見せることで、鶴田の非能動性を慎ましくも示しているように見えるのだが、ここで指摘したいのは鶴田がこのようにして丹波との面会を実現させて、丹波からセメント納入をこれかも木屋辰から変更しないという確約を取り付けることを成功さたのが、鶴田がただ「ジーッ」としていたという極めて消極的な行動によって導き出されたことだ。もしこの時、鶴田が積極的な働きかけを見せて丹波を説得でもしてしまっては、鶴田に木屋辰の危機を救ったという手柄をもたらすことになり兼ねない事態であり、それは鶴田にとっては避けるべき事なのだ。ただ、実際に鶴田がしたように、「ジーッ」と丹波が家に入れてくれるのを待つことにしたならば、積極的に家に迎え入れたのは丹波の方であり、鶴田のそのような行動によってほだされたとしても契約継続の約束も丹波の方が勝手に言ったことだ、というエクスキューズを作ることが出来る。
 このような鶴田の行動のあり方をパフォーマンス的と呼ぶことにしたい。パフォーマンス的であるとは、鶴田の行動が直接的な作用を意図して行われるのではなく、その間接的な効果を期待して行われていることを指している。
 映画の中盤で木屋辰の二代目が死に、その跡目を誰が相続するかの相談を行う場面において、鶴田は聞き分けのない春ボンを衆目の前で殴りつけるのだが、この時の鶴田もまたパフォーマンス的であると言える。この時の鶴田の行動は春ボンを痛めつけることが目的なのではなく、その目的は春ボンを改心させることにある。その様な意味で、ここで鶴田が行ったことを暴力と呼ぶことは出来ない。ここでもやはり鶴田は暴力を振るうことが出来ないでいる。
 「パフォーマンス的」という語は、僕がこの映画を見るときのキーワードの一つである。それは鶴田の行動のあり方を示すと同時に、僕がこの映画における重要な小道具であると見なしている桃と拳銃の特性についても当てはまる言葉である。
 この映画において桃は食べられることが目的ではなかったことはすでに指摘済みである。桃は食べるという本来の目的ではなく、手渡されて鶴田の手を占有するという一種のパフォーマンスにおいて重要な存在である。同様に拳銃のありかたもパフォーマンス的である。それは映画の中での拳銃が武器としてではなく、鶴田と唐沢の藤を巡る関係の中で、ロシアンルーレットとして使われていたことを思い出せば十分であろう。


三島裕二 1980年3月生まれ。映画美学校フィクションコースに8期生として入学。現在は9期高等科に所属し、古澤ゼミで「修行」中の身。