『明治侠客伝 三代目襲名』2(三島裕二)

 さて次に藤純子の行動のあり方について見てみよう。映画の中で藤純子は娼妓として登場する。彼女は星野と共に木屋辰組を陥れようと画策する唐沢という男に気に入られて身請けされようとしているのだが、劇中に何度か登場する「売りもん、買いもん」とう台詞が示しているように、彼女はその身体を金銭によって買われる身であり、そのような意味で鶴田と同じく自らの身体の自由を奪われている存在であると言うことができる。
 藤純子は田舎の父親が倒れたことを知らされるも、その日は唐沢が店に来る日であるために藤は田舎に帰ることが出来ないでいる。そこに通りがかった鶴田は「よっしや。この娘は3日間ワイが買うた」といって女将に財布を投げる。そして、藤は三日だけの期限付きながら、「売りもん、買いもん」という拘束から解放されるのだ。
 しかし、三日過ぎれば藤はまた、もとの拘束状況に帰らねばならない。藤の立場で考えてみれば、自身の身体の全的な解放のために、鶴田と結ばれようとするのは当然かもしれない。藤は鶴田が自分の近傍で「ジーッ」としていてくれる事を望むようになったと言い換えることができるだろう。そして、藤純子は田舎で父親の死を看取って戻ってきた直後に、鶴田に桃を手渡すことになる。藤純子は、自らの身体の解放のために、鶴田浩二の身体の自由を拘束してしまうのだ。それを無意識的に行っている点が、なんとも恐ろしい。「身体表現的、無意識的」視点を導入した時あきらかになる藤純子の拘束の身振りは、町の不幸な小娘といったものを遥かに逸脱していて、ほとんどファム・ファタルのようでさえある。むしろ、藤に抱きつかれてどうする事もできず、「勘弁してくれ」と言い続ける鶴田の方が町の小娘に近いとさえ言える。


 次に映画の中で藤純子が見せる、ある動きについて考えてみたい。その動きとは例えば、鶴田の三代目襲名のその日に、身請けを行うと唐沢から聞かされた藤純子が見せる、スッ立ち上がりその場から逃れるように二階へと続く階段を駆け上がるアクションであったり、例えば、藤山寛美から鶴田のいる神戸に一緒に行こうと誘われた時の、画面の手前に倒れ込むようなアクションの事だ。
 例えば『日本侠客伝』シリーズなどでマキノ雅弘藤純子に振付ける「重心移動」とも非常に近い関係にあるように見えるのだが、これらのアクションは、しかし幾つかの点でマキノ的な「重心移動」とは異質であるといえると思う。マキノ的「重心移動」は思慕の対象との距離が縮まりを契機として起こっている(場合が多い)のだが、この映画では逆に、鶴田との距離の隔たりを契機として藤はあの特徴的な動きをしている。またそのとき、移動方向が横方向ではなく縦方向の動きが強調されていることも異質であると言える。先ほど挙げた二つの例はともに、そのような点でマキノ的な「重心移動」とは異質である。
 

 なぜこの映画の藤純子はこのような異質な動きをしているのだろうか。思うに加藤泰はこの映画を「身体表現的、無意識的」な位相において捉えていたのであろう。そして、そのような視点にふさわしく「重心移動」を変化させたのだろう。第一にこの映画において、藤純子は自身の身体を自由に動かすことが出来ないでいる人物であるべきだ。だとしたら、藤が動きを見せるのは、身体を動かせないでいる事への抵抗として行わなければならないはずだ。ならば、それは藤に自由をもたらす鶴田との距離が近づく時ではなく、鶴田との距離が離れたときに起きなければならないはずである。
 同時に藤の身体は、鶴田の身体を拘束するべく機能しなければならない、その時、藤は鶴田を両手で拘束するだけではなく、自身の身体の重みさえも利用するだろう。映画の後半部分、鶴田と藤が初めて肉体的に結ばれた夜、危篤の二代目が心配な鶴田が帰ろうとしているシーンで藤は鶴田の膝に圧し掛かるような格好で、ここに留まるように懇願する。鶴田はそれを振り切り立ち上がろうとするのだが、すかさず藤は鶴田に倒れこむようにしてしな垂れ掛かり、壁と自身の身体で鶴田を挟み込む。この映画で見せる藤の縦方向への動きは、重力の存在を意識化させ、それは鶴田に圧し掛からんとする藤の身振りが藤の拘束からの解放の欲望と底通していることを示しているのだ。


 さてここまで来て、僕たちは桃を手渡されること、抱かかえられること、膝に乗られることによって鶴田浩二が手と腕と足の自由を奪われたのを見てきた。手と腕の機能を奪われた鶴田は暴力を振るうことが出来ない状態であり、足の機能を奪われたことにより鶴田は二代目の死に目を看取ることも叶わなかった。
 鶴田は木屋辰をヤクザ家業の木屋辰と土建屋としての木屋辰に分離させて、春ボンを土建屋の社長に据える。そして、自らはヤクザ稼業としての三代目の座につくことを決心する。それは映画の冒頭で丹波哲郎の家の前で「ジーッ」としていたのの再演であり、鶴田らしいパフォーマンス的な行動と言える。土建屋としての木屋辰に迷惑が掛からないようにヤクザ稼業を営むというのは、ヤクザ稼業を行わないことと等しく。鶴田の拘束はここに極まったと言える。


 その後、土建屋の社長に就任した春ボンが星野組によって襲撃を受ける。そして神戸から木屋辰組の元に舞い戻るときの、疾走する馬とそれを走らせる鶴田のカットバックのみなぎるような運動性は、身体の拘束から解放へと転調したことを密かに告げている。


 星野組では武装した連中たちが、襲撃に備えている。そこに列車がやって来て、車両の間に身を潜めていた鶴田がニュッと姿をあらわす。このカットで鶴田は列車の屋根に両手を乗せて身を乗り出すのだが、僕たちは鶴田が両腕を肩よりも高く挙げているのに気づき、驚く。鶴田は自らの身体を解放させたのだ。次のカット、仰角で捕らえられた屋根を軽やかに進む鶴田は、更に次のカットで、星野組の事務所めがけて跳躍する。その足は藤純子の体重を受けて失っていたその機能を、驚異的な運動性によって取り戻している。


 星野組に、文字通り単身飛び込んだ鶴田浩二は、星野の腹に日本刀を突き立てた後、ザコたちに向けて発砲する。そして、逃げる唐沢を追いかける。そして、ようやく冒頭に触れたシーンにたどり着いた。鶴田は右手に日本刀、左手に拳銃を持ち、更にその両手を高く掲げて、走っている。このシーンが感動的なのは、これまで状況的、肉体的に拘束され続けていた鶴田の身体が、見事にその機能を回復させていることからくるのだ。
 足は走り、手は物体を握り、腕はそれを高く掲げる。ここでの鶴田はいささかもパフォーマンス的ではない。彼は敵を殺すために殺している。要するに本気なのだ。ゆえにここでの鶴田は圧倒的に強い、そして恐ろしい。鶴田自身が強くて恐ろしいのだ。決して、彼の握っている拳銃や日本刀が強くて恐ろしいのではない。彼がそれらを握っていること、それを掲げていることが恐ろしいのだ。
 ここでの鶴田の強さと恐ろしさを前にしたならば、その拳銃が弾切れであることなど何の問題にもならないことは言うまでもない。恐ろしいのは鶴田の腕であり、足であり、手なのだ。


 唐沢は自宅まで逃げてきて、玄関口で鶴田に刺される。唐沢の自宅には身請けした藤純子がいる。藤はとどめを刺そうとする鶴田の腕を制止するように、鶴田に抱きついた。この時僕たちは、たった今まで繰りひろげられていた鶴田浩二の身体の自由な運動が、身請け人である唐沢を殺すことにより、結果的に藤の身に自由をもたらした事に気づかさせられる。結局のところそれは、パフォーマンス的であったのだ。


 映画のラストシーン。唐沢を刺殺し終えた鶴田は手錠を掛けられ、警察に連行される。それは鶴田の身体が束の間の解放を終えて、再び拘束状態の中に身を落とす姿だ。そして、連行されていく鶴田に藤が近づき鶴田の体を抱きしめる。
 そして、藤純子は自由の身となった。鶴田が刑期を終えるのは、いったいいつ頃だろうか。刑務所から出てきた鶴田に藤は抱きつくことだろう、鶴田の両腕をかかえるようにして。


三島裕二 1980年3月生まれ。映画美学校フィクションコースに8期生として入学。現在は9期高等科に所属し、古澤ゼミで「修行」中の身。


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