革命と子供―――大和屋竺と『ルパン三世』(非和解検査)

俗に“旧ルパン”、“緑ルパン”とも称される1971‐72年版『ルパン三世』テレビシリーズは、平均8.8%という伝説的な低視聴率であったにもかかわらず後のテレビアニメの世界に多大な影響を与え、未だに省みられる作品であり続けている。同時に、大隅正秋や東映動画を退社したばかりの高畑勲宮崎駿といった演出陣、大塚康生をはじめとする作画陣にとっても大きな転機―――既に『ムーミン』の演出で知られていた大隅にとってはテレビアニメからの撤退を決断させたという否定的な意味だったとしても―――となったが、それまで映画畑で活動していた大和屋竺にとってもテレビ作品の脚本を手掛けるきっかけとなる重要な作品であった。そもそも大和屋の監督・脚本作品『毛の生えた拳銃』(68年)を観て感銘を受けた大隅が、劇場用アニメ企画『ルパン三世』の脚本を要請したことがシリーズ誕生の契機の1つであり(この企画自体は流れたが)、実際に大和屋が脚本を担当したのは第2話「魔術師と呼ばれた男」と第7話「狼は狼を呼ぶ」の2本のみであるにもかかわらず、シリーズ全体―――少なくとも大隅が演出を担当した第9話辺りまで―――において大和屋的要素が色濃く窺える。そして、その要素こそが『ルパン三世』をそれ以前のテレビアニメ―――『鉄腕アトム』に代表されるSFや『巨人の星』に代表されるスポ根もの―――から隔絶させることとなった。反啓蒙的で反冒険的な人物達による世界システムの読み替え。それはまさに《革命》であった。以下の文章では、この革命がいかなるものであったか、および大和屋がいかなる形で関わったかを、前記2本に就いて分析してみる。
「魔術師と呼ばれた男」にはパイカル(脚本では白乾児)という人物が登場する。パイカルは常に前髪がいずれかの眼を隠すという風貌の殺し屋である。この片眼という属性は、パイカルが対象との正確な距離計測の世界に生きる複眼的=視覚的人物ではなく、対象に理不尽にまとわりついてくる単眼的=触覚的世界の住民であることを示している。そのことは例えば殺人の方法が主に指先の延長として対象を舐める火炎放射であること、たとえ銃を用いる時も至近距離で発射していること、初登場が暗闇の中であることなどから窺える。また、アニメ作品では省略され大和屋脚本にのみ読まれることだが、パイカルは殺人の時に被害者の顔を間近に覗き込んでいる。これもその単眼性=触覚性を示していると言えよう。同時にパイカルは他の人物達の視覚性を壊乱させる存在としても現われる。パイカルの襲撃を受けたルパン・次元は車に乗って逃亡するが、パイカルは先回りして2人の前に出現する。恐らく別のシーンでも見られる飛行機による移動を用いたのであろうが、この高速移動は2人を狼狽させる。しかも、パイカルは宙に浮かんだ姿で現われている。この垂直性は“世界一強い男”を僭称するパイカルにふさわしいイメージである。パイカルは滝の近傍に居を構え、不二子を宙吊りにして拷問する。まるでこの世界の王であるかのようにふるまい続けるのだ。
だが、ルパン・次元・不二子(この作品の大部分は、彼らとパイカルの4人しか登場しない)は泥棒という属性そのままにパイカルの王座を奪冠する。まず、ルパン・次元の2人だが、彼らはパイカルのいる世界へのイニシエーションを、鏡を覗くという行為で果たす。《距離は見ることの可能性である》とすれば、鏡は《見ないことの不可能性》(「鏡について」宮川淳)なのである。次元は射撃練習に手鏡を用いることで、ルパンは自らの身だしなみを整えるために鏡を覗き込むことで・・・いや、そもそもルパンは海に浮かべたボートに乗って本作に登場したのであり、ひょっとすれば海面を鏡として覗いていたのかも知れない。作中、パイカルに襲撃されて車ごと海に沈むルパンは、ジャン・コクトー『オルフェ』のごとく鏡の世界へ侵入したのだと言えるのかも知れない。さて、このイニシエーションを果たした2人は、パイカルの謎を解析していく。まず、指先から放たれる炎は小型火炎放射器を用いたものだ。宙空に浮かんでいるのは硬質ガラスを用いたのだ・・・しかし、パイカルがなぜ銃撃や爆弾の炸裂にダメージを受けないのかという謎は解けないままである。2人は再度イニシエーションを果たさなければならない。そして、それは不二子を媒介にすることで行われる。
ところで、不二子はパイカルの何を盗んだのであろうか? 不二子はパイカルの所有していた3枚のフィルムを盗んだ。それらはある偶然を介して、ルパンの手に渡るのだが、それ以上に不二子はパイカルのある“方法”を盗んでいる。その方法とは空間=時間にある2つの地点を自在に結合(associate)させるというものであり、ルパン・次元を狼狽させたものだ。そして、不二子はそれを自由連想(free association)によって敢行する。パイカルによってそのアジトに連行された不二子は詰問を受ける。パイカルの顔を見た不二子は、その昔同じような光景に遭遇したことを不意に想起する(この際、詰問するパイカルの声にエコーがかかっている=現在と過去が二重化されている)。ここにおいて、現在と過去を隔てた距離は廃棄され、不二子はイニシエーションを果たす。現在起こっている出来事が、かつて起きたことであり、同時にこれから起こることであるような世界の住民に。さて、不二子はこの距離を失効させるという方法を行使するのに、いくつかの道具を用いる。パイカルに対しては置き手紙とテープレコーダーの2つ。共に“いまここ”にはいない自分の声を“いまここ”に響かせるという機能を果たし、パイカルをルパンとの対決に使嗾する。一方ルパンに対しては近傍、時には眼前にいて、今度は自らの肉声を響かせる。シャワーを浴びながらの鼻歌は暗にパイカルとの対決が迫っていることを伝え、窓越しの語らいではその対決を忌避するように使嗾する。不断に破局へと駆り立てつつ、その瞬間を遅延させ続けようとするこのねじれを孕んだ様態(まるで資本主義のようだ)を、不二子の魅惑の淵源として提出して良いかも知れない。またルパンは触覚の住民らしく、窓の外の木に腰掛ける不二子に飛びつこうとするが、すでに不二子によって足場となるはずだった硬質ガラスが取り除かれていたために地面を愛撫することになる。“いまここ”にいるはずの不二子は、同時に“いまここ”にはいないのだ。そして、この衝撃がルパンに3枚のフィルムの解読方法を教える。フィルムは空間の中で分配された3つの場所に並べられて読み解くものではなく、ある種暴力的に1つの場所に押し込めることで初めて読み解かれる。それはある化学式を示しており、それがパイカルの謎だった。このようにしてパイカルの全てを解読したルパン・次元は、彼の流儀(=世界システム?)に従い彼を殺害するのだ。
ルパン・次元・不二子の3人が敢行した革命を整理してみよう。視覚の世界の住民は常に監視されていると意識することで、実は自分で自分を監視させられている―――まるで鏡を見るように―――というパノプティコン装置の奴隷なのであり、どこにもいると同時にどこにもいない人物に怯え、王として崇拝する。その意味で王は鏡の国の住民である。鏡の向こうに人物は存在しない。しかし、人は鏡の向こうに立つ人物を意識せずにはいられない。“どこにもいない”のに、眼を開く=視覚の世界に依存している限り“どこにでもいる”のである。触覚性―――視覚的人物の眼前に常に遍在し、自らを自らによって監視するように使嗾し続けること―――も垂直性―――視覚的人物の依存する構造から常に逸脱し、その論理で把捉できない存在(不在?)であること―――も共に鏡の国の住民の属性なのである。そこで3人はパイカル=王の触覚性と垂直性を盗んだ。重要なのは、この2つの革命=盗みは同時に行われなければならないということだ。自らを監視させる構造を温存したまま王を殺すことは、世界をただ逆転させただけにすぎない。王を殺した者は、端的に新たな王となるだけである。また、構造の壊乱はたとえそれが大掛かりなものであったとしても、常に漸進的なものでしかありえない。そもそも完全な無秩序はありうるのだろうか。次元は銃の操作に関する知識と技術に長けているために正確な射撃を繰り出せるのであり、ルパンは化学の世界に通暁しているためにパイカルを打ち倒したのではないのか?ここで王が本来的に虚無だと主張しても無意味である。王は無であっても、いやむしろ無=不在であるからこそ秩序の世界の留め金として必要とされるフェティッシュなのだ。革命は王と構造が同時に崩壊する無時間的な瞬間に起こさなくてはならない。《革命家は技術の進歩と社会の全体性を分けるへだたりのなかに生きて、そこに永遠の革命の夢を刻む》(「構造について」ジル・ドゥルーズ)。
だが、3人がイニシエーションを行ったとすれば、この瞬間は到来しないであろう。なぜならイニシエーションは前の構造から後の構造へ時間をかけて移行するという行為だからである。たとえそれが閃きのごとく素早く行われたとしても、時間的なズレが介在することにかわりはない。では、彼らは革命を敢行しなかったのか? 違う。彼らは革命のためにイニシエーションを行わなかったのだ。ルパン・次元・不二子はパイカルとの遭遇とは無関係に常にすでに鏡の世界の住民であった。たとえば、冒頭の射撃シーンを見てみよう。次元はすでに“両手”で正確に銃を使いこなしているではないか。この意味で「魔術師と呼ばれた男」は、大隅=大和屋における『風流夢譚』と言えるのかも知れない。さて、3人が本来的に鏡の世界の住民であるとするならば、ここで問題が生じる。では、彼らは王殺しの対象にならないのか?あるいは王が王を殺すことなどありうるのか?とりわけ主人公であるルパンは?そこで、もう1つの脚本作品を検証してみることにしよう。そのタイトル「狼は狼を呼ぶ」は「王は王を呼ぶ」と言い換えうるかもしれない。
ルパンの盗みの対象はある老人が所有する斬鉄剣の製法を記した巻物である。これはその昔ルパン二世が盗み、そしてこの老人によって盗まれたものであった。そして、ルパンはこの巻物を盗み出し、同時に不二子によって盗まれてみせる。彼は自らの父親の行為をまるごと反復してみせるのだ。だが、この反復には奇妙なズレが忍び込む。なぜならルパンが盗み、盗まれた巻物は偽物であったからである。偽物への摩り替えを行ったのは、老人にその巻物の護衛を要請されている五ヱ門である。だが、五ヱ門は巻物を盗まれて逆上するルパンに本物の巻物を与える。つまりルパン同様に五ヱ門も巻物を盗み、そして盗まれる役柄を割り振られていると言えよう。いや、ルパンが偽物をやり取りするのに対し、五ヱ門がやり取りするのは本物であるから、ルパン二世を反復するのはむしろ五ヱ門の方なのである。ルパン二世の嫡子は五ヱ門?ルパン三世=十三代目五ヱ門?ともかく、本作では五ヱ門こそが王であるかのようだ。そもそも作品の冒頭、ルパンは五ヱ門の下に入門しようとしているではないか。
しかし、ルパンは王=鏡の国の住民としての属性を失ったわけではない。ルパンは安中の半次という人物の鏡像として五ヱ門の元に忍び込み、そして同じく入門しようとする不二子(藤波銀子という仮名で登場する)を雑誌に穿たれた穴を通して片眼で覗き込むのである。またルパンは五ヱ門の袴に盗聴器を仕掛ける。五ヱ門はこの盗聴器を斬鉄剣によって斬り捨てるのだが、ルパンはその様子を音としてというよりも、頭蓋骨を揺さぶる衝撃として知覚する。つまり遠く離れているはずの自分と五ヱ門のいる場所を、触覚的に接合してしまうのである。ルパンはパイカルに施したのと同様、五ヱ門に対しても王殺しを敢行するのであろうか?
だが、その前に五ヱ門の王としての資質を検証してみよう。先述したように五ヱ門は老人に雇われている。彼はどこにでもいると同時にどこにもいないのではなく、老人の作った示刀流というシステムの指南役という位置、巻物の近傍という位置に固定されている。発信機を斬るという行為も、遠隔地にいるルパンに衝撃を与えるというよりは、老人の“非情さに徹せよ”という言葉に促されてのものであろう(発信機はテントウ虫の形をしており、小鳥を屠殺する老人の仕儀の反復である)。あるいは垂直性ということで言えば、不二子に分があるだろう。彼女は示刀流の本部を襲撃する際には飛行機で武器を投下させ、ルパンの手から巻物を盗み出す際には飛行機から盗み出す。3人の兵士を率いて、襲撃するその姿はまさに王のものであろう。彼らに比べて五ヱ門は格段に王としての資質に欠けるといえる。五ヱ門はただ、本物の巻物を所有しているがゆえに王なのである。斬鉄剣の使い手というその規定も、生殺与奪を握る王のイメージというよりは、王に従うテクノクラートのイメージに近い(事実、後のシリーズでの五ヱ門はまさにそうした存在として描かれる)。しかし、この物語で最も王にふさわしいのは五ヱ門でもルパンでも不二子でもなく、もちろん老人でもない。それは斬鉄剣であろう。あらゆる刀を否定する刀。テクノクラートである五ヱ門や老人に支配されつつ支配するフェティッシュ。さらにいえば作中、斬鉄剣は大量生産される商品として描かれており、オリジナルとコピーの差異がないという意味でも王―――というよりは天皇?(三島由紀夫)―――なのである。そして、ルパンは五ヱ門に対してではなく、斬鉄剣に対して王殺しを敢行するのだ。だが、それはどのようにか?
この作品の脚本段階でのタイトルは「ドンパチのない日」というものであった。だが、作品中には先述したように不二子一党による銃撃戦が描かれるのだから、このタイトルは正確には「チャンバラ(による殺人)のない日」と書き換えるべきかも知れない。この作品の中では、4度チャンバラが描かれる。時系列順に並べると、まずはルパン二世と若かりし日の老人との間のチャンバラ。これは二世の持つ短刀型の斬鉄剣老人の日本刀を破壊するところで終わる。次にルパンと老人の巻物をめぐるチャンバラ。これはルパンが老人を陥穽に誘い込むことで終わる。三度目はルパンと五ヱ門の間のチャンバラ。これも同じく五ヱ門が陥穽に落ちるところで終わる。最後にもう一度ルパンと五ヱ門の間のチャンバラ。乗り込んだ車を斬鉄剣によって真っ二つに切断されたルパンは、二輪車と化した車で五ヱ門を追跡する。そして唐突に終わる。これらのチャンバラに共通しているのは、それらが殺人に用いられる前に不意に中断されることである。特に三度目のチャンバラに至っては、五ヱ門は刀を抜いてすらいない。これが本作での王殺しである。斬鉄剣を破壊=殺害したり、強度を損なったりすることなく、ただそれを殺人という目的=結末に向かう運動から逸脱させること。それはパイカル=鏡に対し、いわば合わせ鏡としてふるまって殺害したのとは違う形での王殺しだ。そして作品は五ヱ門のルパングループへの加入を描いて終わるが、これは五ヱ門に対する王殺しといえるだろう。
ところでルパングループとはどういう集団であろうか? それは、タイトルの通り“狼”の群れである。《狼はいつだって8匹か10匹、6匹か7匹なのよ。これはつまり、たった1人で同時に6匹か7匹の狼であるというのではなく、他の狼たちの中の、他の5匹か6匹の狼と一緒の、1匹の狼であるということだ》《私はこの群れの縁に、その周辺にいる―――でも、私はそれに所属している、私はそれに私の体の先端で、片手か片足で結ばれているの》(「狼はただ一匹か数匹か?」ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ)。ドンパチのない日。それは逆に狼になり、司令部から前線まで組織化され国民を総動員するような旧来型の戦争を異化する、いわば“戦争に抗する戦争”としての革命を記念する日の謂いであると言えようか(その意味で、“狼”と名乗ったニューレフト集団、東アジア反日武装戦線を想起しても良いかも知れない)。タイトルは「王は王を呼ぶ」ではなく、やはり「狼は狼を呼ぶ」がふさわしいのだ。
大和屋はこの革命を先駆的に提示した作家であった。それは『殺しの烙印』(鈴木清順・67年)、『処女ゲバゲバ』(若松孝二・69年)などの脚本作品や『裏切りの季節』(66年)、『荒野のダッチワイフ』(67年)といった監督作品にも描かれているが、何よりもここでは前記した『毛の生えた拳銃』を指摘しておく。この映画は麿赤児扮する高と大久保鷹扮する商という殺し屋コンビが、吉沢健扮する司郎という美少年を追跡するという物語を持っている。司郎はオープニングで路上のカーブミラーに反射した姿で現われるように、ルパン達と同様に鏡の国の住民である。そして高と商の2人を暗闇や雑踏といった触覚的空間に誘い込んでは、その殺意を萎えさせる。2人組は語る言葉や膨らませた妄想が実体化してしまうかも知れないという不安に怯えている。胃袋を引きずり出して踏んづけてしまいたいと語る商を高は戒める。《踏んづけてえなんて思っちまったら、もう半分踏んづけているようなもんだ》と。しかし、この戒めはすぐに破られる。それは司郎への同性愛的な感情を語り合い、彼の情交を想像し合うという形で行われる。これを境に司郎は2人組の妄想にしか現われなくなる。葡萄畑での司郎との決闘は回想なのか妄想なのか―――あるいは未来を回想している?―――分からない時制で描かれるし、組織のボスを襲撃する司郎はカウボーイのような珍妙な姿をしている。そして、どちらも決定的な破局を迎える前に唐突に打ち切られる。殺人はおろか、司郎の実体が固定されることすらない。だが、2人組はいつしかそれを楽しむようになる。彼らも鏡の国の住民になるのだ。象徴的なエピソードがある。2人組がそれぞれ娼婦と同衾する時、彼らは鏡を間に置いたかのように対称の挙動を示すのだ。そして革命が生起する。組織は掃討され、同時に2人組は声を響かせるだけの存在へと変貌を遂げる。しかし、その声はなんと肯定的であることか。《司郎の奴に会えるかな・・・会えるだろう・・・又奴にハジキの使い方教えてやろう》。狼は低く唸りあう。それは子供が語り合っているようでもある。
『毛の生えた拳銃』が製作された68年は、パリ5月革命をはじめとする学生運動が燃え上がった年であった。革命の主体は前衛党から子供に推移していたのである。そして、大和屋の革命の担い手も子供であった。報酬を日払いから月給にすることを求めている高と商の抱えた経済不安は、大学が労働者育成機関としての機能を喪失しはじめていた68年の学生をとらえ、運動へと駆り立てたものと同型である。あるいはルパンや五ヱ門が子孫を現わす名前で呼ばれていたことを想起しよう。“子”の1文字を名前に含む不二子も、オリジナル(=元)の後継(=次)であることを告げる次元もそうだ。しかし、それは彼らの系譜的な本来性を保証するものではない(逆に青山真治が指摘するように、そう名乗らなければならない素性の怪しさを示したものと考えた方が妥当であろう。「ルパン対ゴダール あの馬を見たのは誰か?」参照)。それよりも、子供であることが保証するのは群れであるということではないか?“こ・ども”という呼称を見れば分かるように、子供はそれ自体で群れなのである。そして、この群れとしての子供という概念こそが『ルパン三世』に子供向けアニメというジャンルからの飛躍をもたらしたのは冒頭に記した通りである。