『愛欲の罠』を見て(三島裕二)

 いきなりネタバレになって恐縮なのですが、まずはじめにナンバー1の殺し屋、西郷とマリオについて考えてみたいと思います。
 この映画の最後において明かされるナンバー1の殺し屋の正体――実は西郷はダミーの人形で、本体はマリオだった――は、しかし、それ自体では決して僕たち観客を驚かせることはありません。なぜなら、この映画で初めて二人が登場した瞬間から、僕たちはマリオが人間であることを知っていたわけです。画面で動いているマリオを見る限り、あれはどう見たって、人間ですよね。
 しかし、それでも僕たちが最後のオチで驚くとしたら、それは、僕たちがマリオが人間だということを、あらかじめ物語上考慮すべき事柄から排除していたにも関わらず、物語上でマリオが人間であることが語られてしまったことの驚きなのだと思います。そして、それは、組織のボスを倒した星がカメラに向かって、という事は僕たち観客に向かってお辞儀をしてみせるという映画のラストカットにも繋がる驚きです。


 しかし、一体なぜ星はマリオが人間であるということにずっと気付かなかったのでしょうか。僕たち観客にとって、マリオが人間であることは、最初の登場の瞬間から明らかです。そして、その最初の登場のショットが鍵穴から部屋を覗く星の主観ショットだということを考えると、僕たち観客と星は同じ光景を見ていた訳で、星がマリオが人間であることに気がつかないのは、ちょっとおかしいのではないかと考えます。


 もしそれでも星が、マリオが人間なのか人形なのかを蚊に刺された血を見るまで判らなかったとするならば、星は見た目で人間と人形を区別することができないということです。
 これは星に限った話ではないです。映画の中盤に登場する売春宿の老婆も、客としてやってきたマリオと西郷をみても、マリオが人間だとは気付かなかったし、マリオと西郷がナンバー1の殺し屋で、マリオの正体の秘密が殺し屋としての二人の強さの根拠だとしたら、映画に描かれていない過去において、マリオと西郷に殺された人間たちも、だれもマリオが人間だとは気付かなかったということです。
 だとしたら、この映画の登場人物はすべて、マリオが人間なのか人形なのかの区別をつけることができないということです。


 マリオが人間なのか人形なのか判らないということは、マリオ以外の人間についても、それが人間なのか人形なのかを区別することができない、ということなのだと思います。
 そして、恐らくそれは観察者の資質の問題ではなく、実際それを区別することは不可能なのだということを、マリオと西郷はレイプをしてみせることによって、あからさまに証明してみせます。
 マリオと西郷のキャラクターの恐ろしさは、その点につきるのでしょう。


 その恐ろしさに苛まれるのは僕たち観客だけではありません。絵沢萌子演じる眉子が西郷にダンスを強要されるシーンで、呆然自失の彼女は西郷にされるがままに体をブラブラと揺すらせるのみです。操り人形を思わせる眉子のその動きは、果たして自分が人間なのか人形なのか判らなくなってしまった人間の姿なのだと思われます。


 映画を見終わった後で、このシーンのことを思い出してみると、僕たちはここに、実際に人間と人形の区別がつかないことが、さらに別の方法によって示されていたことに気付きます。それは、眉子が自身の身体を力なく人形のようにブラブラとさせて見せたこのシーンが、西郷のレイプシーンの前であったことによってです。つまり、この時点で眉子は実際には人形によってレイプされていたわけではないわけで、眉子は人形によるレイプとは無関係に、すでにして人形のような存在であったということなのです。


 眉子と同じように、映画の終盤でマリオと西郷によってレイプされ殺されてしまう夢子もまた、それ以前から人間でありながら、潜在的には人形であるような、二重の存在だったのではないでしょうか。
 例えばそれは、夢子の登場シーンにおいて端的に現れています。
 売春小屋の一室で待っている星の元に、老婆に連れられてやってきた夢子。老婆の紹介が終わると夢子は客の星に向かって、誘うような、ある振付けられた動きをしてみせます。売春婦である夢子の着飾った衣装も助けて、そこでの夢子はまるで人形のように見えます。


 しかしながら、このシーンで更に重要なのは、「眉子=夢子」という関係ではなく、「マリオ=夢子」という関係なのではないでしょうか。この夢子の登場するショットは、マリオの登場するショットと類似しています。二つのショットがともに星の見た目のショットであること。ショット内の人物が星を見て(つまりカメラ目線で)いること。また、それを見ている星の目線の高さもまた、類似しています(夢子の登場の場面において、星は布団に横になり上体を起こした体勢であり、それは鍵穴を覗く星の見た目のショットで示されるマリオ登場のショットと高さにおいて同じある)。
 さらに、夢子登場のショットの始まりにおいて、老婆と夢子の立っている位置関係(老婆は夢子のすぐ斜め後ろに立つ)は、あきらかに、登場シーンにおけるマリオと西郷の位置関係と対応しており、「マリオ=夢子」という関係を示しています。


 マリオから逃れてきた星の前に、マリオとの共通性を示す形で登場した夢子は、星にとってどのような存在であったのでしょうか。それを考えるために少し星についても考えてみたいと思います。


 星は、自分の手で殺したと思い込んでいた眉子と別荘で再会します。その時、星は眉子から、星が巻き込まれている事態が高山の組織の裏切りに端を発していることを教えられます。
 このシーンで眉子は、星が高山の保身のために高山によって殺し屋として育てられていたことを明かします。その眉子の台詞をシナリオから抜き出してみます。
  

「高山は用心深い男よ。あらかじめ秘密兵器を用意していた。それがあなたよ。殺し屋として通用しない前から目をつけて、その日のために育て上げた」


 僕はさっき、この映画の登場人物がマリオが人間なのか人形なのか区別することができない、と言いました。このことを考慮してみると、眉子の口から発せられた「秘密兵器」という言葉は、決して隠喩ではないという事がわかるのではないでしょうか。眉子はマリオが人間なのか人形なのか判らないように、星が人間なのか「兵器」なのか判らない。そして、恐らくそれを聞く星自身も自分が人間なのか「兵器」なのか判らない。


星の使用する殺しの道具に即していうならば「人間かつライフル」という星のあり方をそこに見ることができるのではないでしょうか。彼はライフルと自分自身、とくに自分の性器を区別しない(できない)人物であるといえます。星が「人殺しの後のオマンコがどんなにいいものか、世間の奴は知りゃしねえのだ」と言って星は眉子とセックスをします。そして、なにより殺しの現場に眉子を連れて行ってしまうことにも(彼はセックスと人殺しを区別できない)、そのようなあり方をみることができます。


 マリオが最後に血を流すことで人間であることが証明されたのだとしたら、星がライフルと性器を区別するのは、それが放つものが精液であるのか弾丸であるのか、という違いにおいてなのでしょう。
 しかし、眉子をレイプするマリオ(と西郷)は、星にとってそのような区別を不可能にしてしまうようなキャラクターとして現れます。レイプする人形の性器から発したものを果たして精液と呼べるでしょうか。眉子が人形にレイプされて死んだとしたら、それは人形にとっては精液かもしれないが、しかし、眉子にとっては弾丸であった言っても、全く差し支えないわけです。
 その意味で、マリオの撃った拳銃に被弾した星は、マリオによってレイプされたことと等価であるといえます。そして、星は眉子がレイプによって、人間なのか人形なのか自分自身が決定的に判らなくなったように、自分が何者なのか決定的に判らなくなってしまったのでしょう。


 眉子が死んで以降の物語、とくに夢子の宿に滞在し始めてからの物語を、星のアイデンティティーの回復の物語として見ることもできなくはないでしょう。しかし、星の回復されるアイデンティティーは先ほどみたように「人間かつライフル」であるような自己であり、アイデンティティーを自己同一性と言い換えるならば、それはパラドックスに陥るようなものです。
 そのようなパラドックスを孕んだ形でのアイデンティティーを星は、夢子とセックスをすることで回復させようとします。夢子はその登場シーンが示しているようにマリオと同様に人間でありかつ人形であるような存在です。恐らくそのような夢子の存在の二重性に、星はアイデンティティー回復の契機を見たのでしょう。


 しかし、「マリオ=夢子」という関係を考えるならば、星の夢子への執着はやはりアイデンティティーの回復とは言えない行為であるとも言えます。マリオの撃った弾に被弾した(それはセックスと等価である
)星は、マリオから逃げて来たにも関わらず、マリオに似た女性とセックスしようとしているとしたら、星はマリオに対して欲情しているということなのでしょう。
 ただし、その欲情はマリオに弾丸を放ちたいという欲望なのでしょう。


 単なるアイデンティティーの回復では、マリオに弾丸を放つことは不可能です。星は殺し屋としてマリオよりも強くならなければ、マリオに撃たれることはあってもマリオを撃つことは不可能です。
 そう考えた時、アイデンティティーは単なる回復ではなく、過剰に回復されなければならないはずです。それは「人間かつライフル」から「人間=ライフル」への移行ともいえるし、「殺人兵器」として育て上げられながら、高山も眉子も守れなかった彼が、不完全な「兵器」からより完全な「兵器」になるべく自らをカスタマイズするイニシエーションともいえます。


改造は二つあったスコープを一つ外すことで行われます。
映画を見れば明らかに判ることですが、これは、星の元にやって来た木谷という殺し屋との、おもちゃのライフルを使った銃撃戦で、星が自分の目を潰させることで、木谷を油断させて勝利を収めたシーンのことです。
 蚊に刺されて血を流してしまうことで、自らの正体をさらけてしまったマリオは、改良後の星の敵でないことは、明らかでしょう。


 木谷とのおもちゃのライフルを使った銃撃戦において行われた、双眼から単眼へという移行は、星の「人間かつライフル」から「人間=ライフル」への移行や、眉子と夢子の「人間かつ人形」から「人間=人形」への移行などと同じように、この映画の中の一つの流れを作っています。
 この二重のものから単一へという運動は、夢子や眉子が「人間=人形」へという移行において、二人が死んでしまったように、生から死への移行として捕らえることが出来るのではないでしょうか。
 としたら単眼になった星は、このとき完璧なライフルへと移行した変わりに、死んでしまったといえるのではないでしょうか。マリオや西郷がそうであったように、この映画において動くことは生きていることを証明しません。
この映画を見終わった後、事後的に降りかえってみると、単眼になった星が宿で夢子とする激しいセックス(それは、食事中も終わらず、延々と行われる)は、彼が死んでしまった、つまり人形になったゆえのものだったのではないだろうかと思えてきます。
 星はマリオを見ても、見た目だけではそれが人間なのか人形なのか判らなかったように、自分自身が死んでいるにも関わらず、ひたすら腰を動かし続ける。このセックスにおいて、夢子が絶頂を迎えるにも関わらず、星は、この映画で流血とともに人間の証拠である射精を行うことは、ついにありません。


 この映画において「ライフル」「人形」が死を意味しているとしたら、「人間かつライフル」から「人間=ライフル」という移行を、「生かつ死」であるような存在の星が完全な「死」へと向かう過程としてみることができるのではないでしょうか。そう考えるとこの映画は、ジム・ジャームッシュの『デッドマン』と類似した物語であると言えるかもしれません。被弾することが、その移行のきっかけとなっている点でも似ていると思われます。


 そのことよりも僕が注目したいのは、この二重のものから単一のものへという運動が、大和屋竺の欲望と重なってみえることです。大和屋竺は、その監督作である『荒野のダッチワイフ』『毛の生えた拳銃』が難解であると言われたことをとても気にしていた、と聞きます。この二つに『裏切りの季節』を加えても構わないであろう大和屋作品への難解であるという評価を、彼は払拭しようとしていたように思えます。
この映画が、前作と比べて、(実はとても複雑なことが行われているにも関わらず)見てとても判りやすい、単線的な物語になっていることは、この映画の主人公、星がたどる単一への運動とパラレルになっているように僕には思えます。
 そして、皮肉なことに、この映画において単一であることが、即ち死を意味していたように、これが監督大和屋竺の実質的な遺作になってしまったことを、僕はとても残念に思います。このまま撮り続けていたならば、大和屋竺はどのような映画を撮っていったのでしょうか。
もっと大和屋さんの映画が見たかった。『愛欲の罠』を見ての感想はこれ以上にありません。


終わり