沖島勲ノート(1)−1(井川耕一郎)


 沖島勲足立正生と共同で書いた『性犯罪』(監督・若松孝二)のシナリオには、読んでいてどうにもひっかかる部分がある。主人公の伊丹(吉沢健)が海辺で子づれの女に声をかけるあたりからの一連の場面がそうだ。

  伊丹、夫人と話しながら、足元の砂をつまんでは投げ捨てているが、やがてギョッとした表情。
  砂の中から、時計の目盛盤のようなものが付いた変てこな機械が出て来る。
  どうやら、素人が作った時限爆弾らしい。


 伊丹は爆弾を砂の中に埋めもどすとその場を離れるのだが、結局、「シュルシュルと白煙が立ち上」っただけで爆発は起こらない。すると、伊丹はまた女のところに戻り、彼女を誘惑し、次のシーンの冒頭ではこういうことになる。

  伊丹が自転車に身をもたせかけて夫人を待っている。
  ハンドルのところにぶら下げた今日の時限爆弾をもてあそびながら……。


 そしてそれきり爆弾はドラマとのつながりを失ってしまうのである。ラストで唐突に爆発し、伊丹と彼が書きあげたばかりの小説を吹き飛ばすまでは。
 一体、この爆弾は何なのか。誰がどんな目的でつくったのかというような詮索はまったくなされない。どう考えてみても場違いなのに、こんなところに落ちていても別に不自然ではないでしょう、と言わんばかりの奇妙なあり方だ。ついつい替え歌で「名も知らぬ遠き島より流れ寄る爆弾一つ……」と歌ってしまいたくなるような気分である。つまり、『性犯罪』の爆弾はテロの道具というより、漂着物に近い。わたしを拾って……と無言のうちに呼びかけてくる貝殻や流木の仲間だと考えた方がすっきりするのではないか。
 『性犯罪』と同じ一九六八年に沖島勲がシナリオを書いた『性の放浪』(監督・若松孝二、共同脚本・足立正生)は、主人公の昌三(山谷初男)が気がつくと見知らぬ田舎の駅にいるところからドラマが始まる。昌三は東京に帰ろうとするのだが、途中で金を奪われたり、女に拾われては捨てられたり……といったさんざんな目にくりかえし会いつづけてしまう。そしてとうとうこんなふうにぼやくことになる。

昌三のN「……俺は、東京へ帰っているのか、逃げてるのか……俺は、こうせざるを得ないのか……それとも、好んで、こんなふうにしてるのか……一体どっちなんだ……? ……ああ、この先、何時東京へ着くんだろう……」


 昌三は海原をただよう椰子の実と変わらない存在となって、やっと上野駅に漂着する。すると、駅には映画の撮影隊がいて、昌三の妻がカメラの前で夫を探す演技をしている。一体、このラストシーンのおかしさをどう説明したらよいのか。『性の放浪』という映画が今村昌平の『人間蒸発』のパロディとして企画されたことをあらためて指摘すれば、それで充分なのだろうか。
 いや、そうではないだろう。昌三の妻が夫を探す演技をしているとき、一番起きてはならないのは、そこにひょっこり昌三が現れてしまうことなのだ。ラストシーンのおかしさは、昌三の場違いな漂着によって監督の演出意図があっさり無効になってしまった点にある。実際、沖島はそのおかしさを強調するように印刷台本の余白に手書きで監督の台詞を次のように書き足している。

「種田さん、もうちょっと疲労感が欲しいなあ。もう、何か月もいなくなって、探したんだから、それに、もう少し内面的な芝居が欲しいなあ、ね、御主人は、消えちまったんやからね、え? 御主人てのもこの世に、おらへんわけや、ね! 勿論、理由はあらへん。理由なんてもんから脱出したかったんや。あんたの主人やから、あんたの前から消えたってことは、この世からおらへんのと一緒や。あんたが、この世、世界なんやから。ね! いうたら、おらへんことで、消えたという形で、今はあんたの前に存在しとるわけや」


 それにしても、「おらへんことで、消えたという形で、今はあんたの前に存在しとるわけや」という台詞はちょっと気になる。これはまるで幽霊の本質について論じている言葉のように見えるのだが……。
 しかし、ここで脱線するのはよして、先に進むとしよう。