沖島勲ノート(1)−2(井川耕一郎)

 一九六九年、沖島勲は『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』を撮って監督デビューする。結婚式の打ち合わせのために山奥の別荘に集まった人たちが最後に乱交してしまうというこの傑作コメディにも、漂着物のような人物が登場する。新郎の母・きくがそうだ。映画の前半で、彼女は満州からの引き揚げのこと――ロシア兵を恐れながら、妹と交互に幼い息子を背負って極寒の満州をひたすら歩き続けたことを語る。しかし、これだけではきくはただの漂着物でしかなく、場違いな感じはない。彼女の場違いぶりがあらわになるのはもっとあとのことだ。
 映画の後半で、新郎の顕一(矢島宏)と新婦の父・厳(津崎公平)は、戦争で夫をなくしたきくの性的欲望について論争を始める。その論争はなぜだか顕一の叔母・美津子(江島裕子)と新婦の母・昌子(香取環)のとっくみあいのケンカへと脱線していくのだが、登場人物たちだけでなく観客までもがきくの存在を半ば忘れかけていたとき、ふいにきくが、ぞうさんぞうさん、お鼻が長いのね……と童謡「ぞうさん」を歌いだすのだ(しかも、聞く者を呆然とさせるほど、たどたどしく)。そして、歌い終えたあとにこう尋ねるのである。

  奇妙な童謡を歌っていたきく、突如皆の方へ向き直り、
きく「先ほどの、私の問題はどうなったんでしょうか?」
全員「(愕然として)えっ!」
きく「ずい分、あいまいで終ったけど……、私の、欲望……いえ、春情についての話は、どういう風に結論が出たのでしょうか」
全員「?!……」
きく「私は、この結論がはっきりされるまで、どうして良いのか分らない……戦後二十数年間……私の生き方は間違っていたのでしょうか」


 きくを演じた女優は須磨ひとみというらしいのだが、どういう経歴の人なのかまるで知らない。ただ、この場面での彼女の演技は見た人の記憶の中にいつまでも強く残るだろう。津崎公平や香取環といったベテランの役者たちを圧倒してしまうくらいの存在感を放っているのが、もう笑うしかないほど素晴らしい。
 だがそれにしても、このあと、乱交に至るまでの間に一体何が起きたというのだろう。その出来事の面白さを的確に指摘するのはとてもむずかしい作業のように思える。というのも、分析すべき回想があり、分析があり、その分析結果を裏づける新たな事実の提出があり……といったふうに真っ当な手順で議論が進んでいくように見えて、全体としては大きくゆがんだドラマ展開となっているからだ。
 乱交までの展開を要約すると、こんなふうになる。まず、厳たちが議論の結論はどうなったのかというきくの問に答えられないでいるなか、ふいに新郎の叔父(きくの兄)・吾郎(松浦康)が童謡「ぞうさん」のことを問題にしだす。「君たち、あの歌、どこかで聞いたことがあるかね? 今までに……」。昌子や美津子が、聞いたこともない歌だ、と答えると、吾郎は、ずいぶん前にたった一度だけ聞いたことがある、と言う。それは幼いきくが八幡様のこま犬にまたがって遠い目をして「陶然とした……うっとりと、自分に酔っているような……」感じで歌っていた歌だった、と。
 すると、巌が「君の妹さんは……その時、性の快楽を味わっていたわけだ……」と断言し、きくは未亡人となってからはオナニーによって性欲を処理していたのだろう、と推理する。当然のように顕一は母を侮辱されたと感じて怒るが、そのとき、新婦の笙子が急に口を開くのである。「不思議と言えば不思議ね……私が、自分の部屋にとじ込もって……着ているものを全部脱ぎ、裸になってピアノを弾く時、必ず弾くのがこの曲なの……象さんなのよ……」。そして、笙子はきくのもとに走り寄り、着物を剥ぐと、厳に呼びかける。「パパ! 早くっ! 早くやっちゃいなさいよ!」
 きくの問いかけに答えられずに脱線していった議論が、いつまにかきくの問いかけに答えているという展開もおかしいが、何と言っても気になるのは脱線した議論の中で話題になる童謡「ぞうさん」だ。
 まどみちお作詞・団伊玖磨作曲の「ぞうさん」がつくられたのは一九五三年のことだし、映画が製作された一九六九年の時点で「ぞうさん」は有名な童謡だった。そういう点から見れば、『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』は現実からかなりずれたところで成立してしまっている。しかし、不思議なのはそうしたずれがどうでもいい小さな傷にしか見えないということだ。
 『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』のすごさは、童謡「ぞうさん」を今まで聞いたことのない歌、知らない歌として扱うところからもう一歩ふみこんで、思いもよらない別の定義をしてしまったことにある。はっきり言って、以下に引用する部分はひょっとしたらシナリオから削除した方が話の流れとしてはすっきりするかもしれない。にもかかわらず、厳は「ぞうさん」について次のように定義してしまうのだ。

「君がこの歌を二度と聞いたことがないのも、そして我々が、今夜ここで聞くまで全く一度も耳にしたことがなかったというのも……それはこの歌が、こんな歌は、実はこの世に有りはしないからだ」
  一同、茫然とたたずんでいる。
「(煙草を一服し、落ち着いた態度で)きくさんがこの歌を歌う時は、もう、自分の他には誰もいないまあ、しいていえば、神様とだけ向い合ってる、そんな瞬間なんだよ……」


 神様と向き合っているときにだけ出てくるこの世に存在しない歌――こうなると、これはもう、宗教的な恍惚の中で信者の口から未知の国の言葉があふれ出るという異言のようなものではないだろうか。なるほど、まどみちおの歌、たとえば、「やぎさんゆうびん」や「ふしぎなポケット」には際限のない反復へと人を誘う力がある。「ぞうさん」もそうだ。「ぞうさん」を歌う者は、象の鼻が長い理由を子象だけでなく、さらに母象、母象の母、母象の母の母……というふうに無限にさかのぼって尋ねてみたくなってしまうだろう。そんな無限への誘いを異言と結びつけて理解したとしても、別におかしくはない。奇妙なことに、厳は童謡「ぞうさん」の成り立ちについては無知ではあるが、その本質だけはきちんとつかんでしまっていると言える。
 しかし、「ぞうさん」はきくにとって異言のようなものであるという定義は、そのあとすぐに厳自身によってねじ曲げられてしまうのである。未亡人のきくは男を作って浮気をするというようなことはなかっただろうが、オナニーはしていたはずだ。つまり、「ぞうさん」は、きくがオナニーするときに歌う歌である、というふうに。そして、笙子も自分の体験を語って父の断定に賛同してしまう。一体、「ぞうさん」をめぐる評価がこうも大きくゆれ動いてしまうのは何なのか。
 たしかに、吾郎が語る言葉のとおりだとすれば、こま犬にまたがって「ぞうさん」を歌う幼いきくは性的快感を感じていたのかもしれない。しかし、彼女が感じていたものは本当にそれだけだったのだろうか。というのも、吾郎は幼いきくが「ぞうさん」を歌ったときの状況について次のように回想しているのである。

吾郎「(昔の情景を思い浮かべながら)そうだ……俺が未だ小学生だったから、(きくを指し)こいつが未だ、学校へ行くや行かずの頃だったろう……引っ越してきたばかりの土地だったから、友達もあまり出来なかった……俺たち兄妹は、二人で良く遊んでいたもんだ……あの時は、八幡様の境内で……俺が何時もこま犬にまたがって、ハイシハイシとやっているのを、うらやましく思ってたんだろう。こいつが自分も乗るといい出した……」


 引っ越してきたばかりの土地――つまり、このとき、すでにきくは一個の漂着物だったのだ。ならば、こうは考えられないだろうか。きくは漂着したばかりの土地になじむことがなかなかできなかった。だから、こま犬の上で「ぞうさん」を歌って、今こことは異なる次元に向かった。そして、その異次元にいること自体がきくにとっては大きな歓びだった、と。
 だとしたら、満州から引き揚げてきたきくにとって、「ぞうさん」を歌うということはどういうことだったのだろう。たとえば、息子の顕一は引き揚げてきたばかりのことをラスト近くでこう回想している。

顕一満州から引き揚げて、長岡の田舎にたどりついた時、空には、黄色い月が登っていた……僕達は、橋の上から、何故か立ちどまってそれを見たんだ……それから僕は、魚を売って歩いたし、新聞配達もした……苦しい生活だったが何か、空が本当に天まで突き抜けていたのはどういう訳だろう……地べたにしがみついて生きながらも、空が突き抜けていることは、何という幸福なこと……」


 ここで語られているのは、何とか生き延びて今ここにいるということの素直な歓びだ。しかし、「ぞうさん」を歌うときの母親は、息子が感じているような歓びには背を向けているように思える。彼女は今ここではない異次元を夢想して強い快感を感じている。はっきり言ってしまえば、その夢想の根底に流れる感情とは「死ねば、楽だ」ということではないだろうか。もっとも、きくは「先ほどの、私の問題はどうなったんでしょう」と他人に真顔で尋ねてしまうくらいだから、自分のことがよく分かっていない。しかし、彼女の無意識はそうなっているのではないだろうか。
 そう言えば、美津子と昌子がとっくみあいのケンカをしているときに、画面外からふいに聞こえてくるきくの「ぞうさん」には、エコーがかかっていた。きくが立っていたところは美津子や昌子たちからほんの二、三メートルしか離れていなかったのに、その歌声は無限に遠くから響いてきたのだ。つまり、登場人物たちはあの世からの歌声にふりむいてしまったのである。
 そして、ふりむいてしまったことに内心もっとも動揺してしまったのは、厳だったのではないだろうか。厳は自分が眠っている間に何か決定的なことが起きてしまうのではないかという強迫観念にとらわれていた。そのくせ、彼の肉体は泥酔し、ひどく眠りたがっていた。肉体の欲求にさからって目覚め続けようとする厳にとって、あの世から響く「ぞうさん」ほど恐いものはない。だから、彼は強引に「ぞうさん」はオナニーの歌であると断定したのだろう。乱交に至るまでの展開がゆがんだものになってしまったのは、死にだけはかかわらないでおこうという厳たちの必死の抵抗のあわられだったということができる。
 しかし、厳たちはあの世を完全に遠ざけることができたのだろうか。ラストでくりひろげられる乱交には、はめをはずしてセックスにのめりこもうというような活気は感じられない。恐ろしく静謐な光景で、どこか死臭がただようものとなっているように思う。
 それにまた、ラストで響く「誰も見てないぞ! ……誰にも見せないぞーッ!」という叫びは何なのか。山奥の別荘に新たに誰かがやって来る気配はまるでない。にもかかわらず、誰かの目を気にしてしまうとしたら、その目とは「おらへんことで、消えたという形で、今はあんたの前に存在しとる」ような者の目――つまり、幽霊の目ではないだろうか。


 ――と、ここまで書いてみて、自分の言葉が『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』の後半の面白さを言い尽くしていないことを感じる。やはり、これもまた試論にしかならないのだろうか。
 とりあえず、今言えることは次のようなことだろう――沖島勲は場違いな漂着物を世界に持ちこむことで、普段は見ることができない現実の別の面を表現しようとした映画作家である。