井川耕一郎論・試論〜上映予定の三作品について〜(佐野真規)

 まず、これは自分の思い込みかもしれないと断っておく。そうして、以下に取り上げる事柄については諸兄が既に指摘されて議論をなされた、既に自明の事柄であろうことも想像に難くない。が、愚弟としてようやく今日、井川耕一郎の監督作品を見たぼくが、以下についてぐたぐたと述べる事は思い込みであるとするならば、井川耕一郎の映画について諸兄が語ったであろうこともひょっとしたら思い込みではないかとも思わなくはない。
 と、いうのは厚顔無恥であるぼくが、というよりも井川耕一郎が、映画を見るものにそうした思い込みを思い込ませており、かの映画はそのように人を思い込ませるように出来ており、そうして我々は、井川耕一郎の手の上で、転がされて各々そう思わされているのではないか。手の上で不得要領にさせられているのではないか。と、井川耕一郎に思い込まされたからである。
 フィクション初等科D組が主催して井川耕一郎上映会を行うということで、D組のぼくはD組講師である井川耕一郎の映画を見た。「西みがき」を最初にみた。訳が分からなかった。途中で記憶を失った。寝た。見終わった後、D組の冨永くんが「井川さんの映画は死が画面に溢れていますね」と言った。それでぼくはようやく分かった。ぼくは寝ていたのではなく井川耕一郎に殺されていたのだ。
 そうしてぼくは思い込んだ。死が溢れているというのはどういうことか。思い込まされた。井川耕一郎の映画には生と死がダブル(=分身)となって繰り返し現れる。エロスとタナトスがダブルとなって繰り返し現れる。それらが荒唐無稽な形象をとってスクリーン上に現れているうちに、そうしているうちに、いつの間にか観客は井川耕一郎に殺される。スクリーンを見ているはずの観客は、「西みがき」の「西口くん」のように、死んでいるのに死んだ実感がない幽霊なのか何なのかよく分からない正体不明の存在にさせられる。死んでいるのに死んだ実感がない。それは生きているのに生きている実感がないのと同じ事である。そうだ、だからぼくは寝ていたのではなく井川耕一郎に殺されていたのだ。「映画が終わると愛が終わったように感じる」、と言っていたのはカサヴェテスだった。「映画を見ると何度も繰り返し殺されたような気になる」のが井川耕一郎の映画なのだ。
 死んだ「西口くん」は死んでいるのに生きているようである。だから首を絞めて殺される。だから袋に詰めて遺棄される。「三本足のリカちゃん」はペニスを持っているのか。臍の緒を持っているのか。だから殺される。バラバラにして殺される。性欲(=生欲)を持っていると殺される。エロスは生命の表れであり死の表裏となって現れる。死んだ「西口くん」はリカちゃんの足を、まるで自分の男性器に触れるかのように触れ、気を遣った。気を遣るということ(=性的絶頂)は死に似ていると言っていたのはバタイユではなく井川耕一郎の映画を見たぼくである。嘘である。バタイユである。小さな死。ゆっくりと、穏やかに、緩慢に、首を絞められていく。そう、映画の中で何度も繰り返し生かされ殺されるのだ。ぼくらは井川耕一郎によって。
 「ついのすみか」を次に見た。生き物は、生き物の前提として、生きている限りゆっくりと死に向かっている。また、死はその前提として、生き物が生きていない限り訪れ得ない。浅蜊が砂を吐かされている。塩水の入ったボウルの中で、包丁を抱かされて浅蜊は砂を吐かされる。塩水の中でゆっくりと浅蜊は砂を吐く。苦しそうに、いや気持ちよさそうに。それと同じ、塩水に付けられた浅蜊と同じ、その部屋で、女は男に何度も髪の毛を撫上げられ、繰り返し繰り返し、女はつぶやく。女は浅蜊のように、包丁を持たされ塩水に晒されそうして砂を吐こうとしてもほかの浅蜊が吐いた砂を吸ってしまうと。ボウルの中の、恍惚とした浅蜊のように。塩水と包丁に晒されて苦しんでいる浅蜊のように。緩慢に死に向かわされている。殺すために生かされる。生に向かうために殺される。いや、生きている事は緩慢な死の中にいる事だと示される。井川耕一郎の映画によって。
 男と女の間で、女性器と男性器の関係を思わせるような言葉のやり取りが繰り返される。包丁を握った女が、ゆっくりと、包丁を握ったその手を繰り返し動かす。何度も何度もなでるように、刺し殺すように。砂を吐かされ、死に向かっている浅蜊のように。首を絞められる女のように。女と、その姉がダブルである。生と死がダブルである。「ついのすみか」は「西みがき」のダブルである。またしてもぼくらは井川耕一郎に殺されている。生かすために殺され、殺すためにまた生き返させられる。
 それが繰り返される。「繰り返される諸行無常、よみがえる性的衝動」と歌ったのは向井秀徳だったが、「繰り返される生と死、よみがえる生的衝動」と、それを映画に撮るのは井川耕一郎である。観客は殺される。さらに観客は、井川耕一郎によってもう一度殺されるために、そのために生き返させられる。そうして観客は、そう、もう一度殺されるのだ。生死を解脱した仙人のようでありながら、徹底して観客を殺し、そして生き返らせるのは井川耕一郎である。
 三本目に「寝耳に水」をみた。Mの性癖を持つ女性。ファーブル昆虫記。その女性を操るタクト。M女性の御主人様とその奴隷契約書。二人いる田代弘美というダブル。エロティシズムと死のダブル。「寝耳に水」は「伊藤大輔」のダブルでもあるだろうか。いや、そうかもしれない。いや、違うかもしれない。と。ぼくが思い込むに至る前にある人物が、井川耕一郎の映画を見るぼくたちの前に現れ、そう、ここでは仮にI沢さんと呼ぶ事にするが。そのI沢さんは、ぼくたちが映画を見ている映画美学校の部屋に入ってきて、「もう十一時だけど。いつ終わるの?」と、ぼくたちに聞いたので、ぼくたちはすぐさま「寝耳に水」を中断し、今回の事前試写を撤収し、I沢さんに平謝りして外に出た。なので、「寝耳に水」はそうである。途中である。ぼくらはI沢さんに殺された―この時は井川耕一郎によってではなかったのだった―
 そう、以上は全てぼくの思い込みである。責任は取れない。ダブルなどは存在しない。エロスとタナトス、それらはダブルだと、ただ言いたいだけなのかもしれない。責任は取れない。また、ぼくは井川耕一郎監督の映画を二本と半分しか見ていない(「伊藤大輔」と脚本作を除いて)。なので、ぼくの井川耕一郎についての試論が、今回初めて井川耕一郎の映画を見る人への、導入になるかもしれない。もしくは、ならないかもしれない。と、いうことかもしれない。以上は、全てぼくの思い込みである。


佐野真規:1982年生まれ。滋賀県出身。シネフィルぶって「映画は映画館で見なきゃ」と、映画館に映画を見に行くが、十中八九寝る。
映画美学校11期フィクション初等科井川クラスに在籍中。