にいやなおゆき『灰土警部の事件簿 人喰山』について(井川耕一郎)


以下の文章は、『映画芸術』「2008日本映画ベストテン&ワーストテン」号に書いたものの再録です。


にいやなおゆき『灰土警部の事件簿 人喰山』10点
渡辺護『喪服の未亡人 ほしいの…』10点


 渡辺護の『喪服の未亡人 ほしいの…』は、ピンク映画の枠で何かを表現しようというのではなく、純粋にただのピンク映画を目指しているところが潔い。そして、その潔さが、遊び心あふれた表現として結実している。だが、字数も限られているので、ここではアニメーション作家・新谷尚之の『灰土警部の事件簿 人喰山』について書くことにする。
 『人喰山』の魅力をどこから語ればいいのだろうか。まずは新谷尚之が描く画の力がある。登場人物は黒々とした影のようで、目と体の輪郭だけが白く強い光を放っている。逆光を意識した画というふうにも言えるかもしれないが、それでは大切なことを言い落としているような気がする。拓本のように黒いと言ったらいいだろうか。ふと思い出したのは、甲骨文や金文の拓本だ。『人喰山』の画は、白川静が論じる漢字のように、遠い昔の忘れ去られた物語をはらんでいて、これを何とか解読したいという欲望をかきたてる。
 新谷尚之は『人喰山』の前口上で「本作はアニメとは名ばかりの紙芝居」と語っている。だが、画が持つ独特の力を活かすには、止め絵で見せていくのが一番よかったのだろう。興味深いのは、止め絵を撮っていくカメラの動きだ。そのカメラワークは、指先で古代の文字をたどって読んでいくさまを連想させる。となると、新谷尚之自身がイタコとなり、さまざまな声色を使って物語を語る形を選んだのは当然のことと言えるかもしれない。
 JR人柱駅からバスにて四時間、徒歩五時間、黒雲うずまくここは通称人喰山……と新谷は語りだす。連続婦女暴行殺人犯が死体を埋めたという山に、灰土警部は犯人の田代たちとともにやって来る。だが、村長は道案内の村人を出すことを断る。今年は百年に一度の山の神様の祭がある年で、人喰山に入った者は生還できないというのだ。
 山に入っていくことと物語世界に入っていくこととが無理なく重ね合わされた出だしである。けれども、新谷の語りが本領を発揮するのは、田代に姉を殺されたはるこが灰土たちのあとを追いかけて山に入ってからだ。はるこは田代に灯油をかけ、火を放ち、復讐しようとする。大火傷を負った田代を死なせるわけにはいかない。灰土警部は下山することを決意するのだが、彼らは雨と霧の中で道に迷ってしまうのである。


(注意!以下の記述の中にはネタバレの部分があります)


 途中、巨大な茸の下で雨宿りをする場面がある。そこではるこが村に伝わる唄をうたいだすのだが、おらの父も母も姉も人喰山に捨てられたという歌詞が何とも無気味だ。最後に、おらもまた人喰山にいることが明かされるのだが、皮を剥がれるなどのむごい陵辱の果てに捨てられたらしく、どうやら生死の境をさまよっているらしいことが分かる。
 すると、はるこの残酷で哀切な唄に触発されたかのように、今度は瀕死の田代が語りだす。真夜中、山奥の巨木のうろに死体を投げこんだとき、女たちの声が地の底から響いてきた。もっと仲間がほしい……若くて美しい女を連れてきて……、と。それを聞いて、おれは思った。ああ、ここは天国なんだな。おれはいいことをしたんだな……。
 まるで下山しようとする灰土たちを引き戻そうとするかのように、新谷の語りは異様な熱気を帯び、はるこへ、そして田代へと乗り移っていく。たぶん、新谷はこう考えているにちがいない。異界を描こうとするのなら、世界設定を緻密に考えるだけではだめなのだ。何よりも大切なのは、本気で異界を語る力だ。語りの力が充分に強くなければ、異界は私たちの前に出現しないだろう。
 かくして、はるこの唄と田代の語りによって、灰土と私たちの目の前に異界が引き寄せられる。鬼たちはひとの生き血をたっぷり吸った吸血樹を引き裂いて、血の池をつくり、そこに自分たちの糞尿をまぜて媚薬をつくる。そして、灰土たちも巻きこんで乱交をくりひろげるのである。その地獄の光景は果てしなくどこまでも広がっていくかのようだ。だが、息を殺して見つめているうち、私たちはふいにめまいに似た感覚に襲われる。ひょっとして、この光景はマクロというより、ミクロの光景なのではないか……。
 実際、灰土警部とはるこは鬼の子宮の中に押しこめられ、ペニスで何度も突かれるはめになる。二人は自分たちの誕生の瞬間を体験しなおしてしまったのだ。そして、捜索隊が灰土警部を発見したときには、彼の精神はすっかり赤ん坊に退行していた……。どこか『2001年 宇宙の旅』やフロイトの『無気味なもの』を思い出させる結末である。
 だがそれにしても気になるのは、人喰山の上空を飛ぶ怪鳥だ。新谷尚之の語りはサービス精神旺盛で聞いていてとても楽しいが、その裏にはピンとはりつめたものがある。たぶん、その緊張感は怪鳥から来ていると思う。新谷にとって、ひとを鷲掴みにして一気に異界へと飛び去っていく怪鳥こそ、理想の表現者の姿にちがいないのだ。あの怪鳥に比べれば、自分の語りなどまだまだだ、と思っているのではないか。新谷尚之は、今、誰よりも真剣に、物語を語る力をきわめようとしている表現者だと言えるかもしれない。