『演出実習2007』インタビューノート(冨永圭祐)


○インタビューまでの経緯

井川さんの演出実習2007教材ビデオ化計画は、万田邦敏篇(撮影現場・段取り篇)の編集から始まった(と思う)。で、僕にインタビューの話が来たのは、2008年の9月ごろだった(と思う)。初等科も終わり、高等科まで少し間が空いて、一度実家に戻った。のんびりと過ごしていると、メールが来た。井川さんだった。12期初等科で、最初のクラス別講義があるので、よかったら井川クラスに遊びに来てください。とのお誘いだった。東京へ戻る新幹線では全く何もせず、外を見るふりを続けた。緊張していたのかもしれない。そんな初対面の12期生の中に、まじれるわけがない。僕は東京駅で新幹線を降り、その足で映画美学校へ向かった。井川さんのことだから、早めに授業を切り上げて飲んでいるに違いないと思い、おつまみも持っていった。
教室のドアを開けると、やはり授業は終わっていた。隅っこに一人見慣れたやつが座っていた。僕と同じ11期井川クラスの、メロンにまつわるシナリオを書いてきた変わったアイツだ。僕は彼のとなりに座り、12期生たちがお酒やおつまみを用意するのを眺めたり、時には手伝ったりもしたかもしれない。12期生は動きがよかった。ハツラツとしている。井川さんは、僕を「串刺しのビデオを撮った人」と紹介してくれた。以来、時おり12期生から「串刺しの人ですよね」と声をかけられるようになった。
その後、千年そばで飲んでいる時だっただろうか。井川さんから、10期の時の万田さんの演出実習の映像を、見やすいように1時間ほどに編集しているという話を聞いた。で、最終的には45分ほどにし、15分のインタビューをくっつけたいという事だった。現役の美学校生に向けた教材ビデオなので、インタビューする人間も現役の生徒がいいだろうということで、僕にお声がかかった(のだと思う)。僕は即座に引き受けた。恐らく、万田さんに色々質問できる、お話ができる、とスケベ心も働いたのだろう。


○僕がインタビューを行うことについて

インタビュアーを引き受けることになった当時、僕はちょうど美学校の初等科を修了し、高等科が始まったばかりの頃であった。
初等科の1年間は、ほぼ全ての事が新しい経験だった。それは、フィルムを使った撮影などの技術的な所ももちろんそうなのだが、それ以上に演出について考えるという所が大きかった。僕は美学校に入る前に、大学で2年間、自主映画のサークルに入っていた。何本かどうしようもない短編を撮っていたのだが、「演出」というものが何なのかについて考えたことはなかった。監督・撮影・編集…自分 というのが当たり前のサークルで、特に疑問を感じずにビデオカメラを回していた。どういうカットを撮るのか、どう編集するのかが、自分にとって一番大事なことだった。お芝居については、そのカット内で自分がイメージしているしゃべり方や間に近づける作業でしかなかった。それが監督のしていることなのだと思っていたのだ。
そして美学校に入った。演出が、役者の芝居について考えることなのだと知った。もちろん、画面における演出も監督の演出のうちだとは思うが、それをするためにはまず、目の前で役者が繰り広げる芝居が面白くなくてはいけない。
なるほど。それまで自分は、登場人物が会話しているシーンをうまく撮れなかった。どういうカットを撮ればいいのか分からなかった。とりあえずきりかえしたり、1カットで撮ったりした。だから、そういうシーンに興味も持てなかったし、シナリオを書くときにもすごく困った。今思うとそれは、お芝居についてちゃんと考えていなかったからなのだろうか。撮り方しか考えていないから、あらかじめ頭の中でカット割を考えなければならなかったのだ。それはそれで楽しいのだけど、全然思いつかない時、とても困った。それも大体、本来重要になるはずの、複数の登場人物が言葉を交わしあうようなシーンだったりする。そういうシーンを、通しのお芝居で考えることなく、いきなりカット割で1シーン考えようとしていたのだから無茶な話である。


初等科のカリキュラムには、演出について考える機会として演出実習があるわけだが、僕達11期は、見事にこの機会を無駄にしてしまった。演出実習は、まず初等科の生徒が班分けして同じシナリオでそれぞれ演出・撮影し、それを講師が講評。その後、講師も演出実習を行い、それをふまえた上で、もう一度生徒たちが同じシナリオで演出し、撮影する、といった手順だった。今考えると、このカリキュラムの狙いは明確なのだが、当時の僕達は狙いを読み取れず、シナリオをめちゃくちゃな解釈で撮影してしまった。僕のいた班も例外ではなく、最もひどい解釈をした班の一つだった。井川さんが激怒したのは言うまでもない。
その後、初等科修了制作企画のシナリオ執筆と共に課せられる、3分ビデオ課題は演出について考えるよい機会となった。自分の書いているシナリオの一部分、3分間を演出して撮影してくるというものであった。僕はこの機会に、今までとは違う方法で撮影をしてみた。現場で1シーン通したお芝居のリハーサルをし、それからカット割を考えるといったものだった。それはとても新鮮で興奮する体験だった。演出は面白いと、初めて思った。
その後、修了制作の現場を経験し、改めて演出の難しさにぶち当たっていたときであった。
絶えず演出について考え続けている人たちに、率直に質問する機会が僕に与えられた。正直に、僕はラッキーだと思った。


○インタビュー・万田邦敏

演出実習2007の万田さん篇は、撮影現場・段取り篇として編集された。あらかじめ編集されたDVDを受け取っていたので、それを見て万田さんへの質問をノートにまとめる作業を行った。


撮影現場・段取り篇は、万田さんがお芝居をつけていく工程が非常にわかりやすく編集されている。DVDを何度か見ていると、この芝居のポイントが二人の役者の距離であることがわかってきた。そのことは分かってきたのだが、見れば見るほど、分からなくなることがあった。
「一体、万田さんはどこまで事前に考えてきたのだろうか」
映像の中で、万田さんは「ちひろ」という役の役者を、くるくる回るイスに座らせている。このイスを使った「ちひろ」の動作は、どの時点で思いついたのだろうか。二人の距離のとり方にも関わってくる動作なので、ある程度考えていたのだろうか。ということは、二人の距離や動作は、シナリオを読んだ時点であらかじめ見えていたのだろうか。
では、シーンの設定はどの時点で思いつくものなのだろうか?
こういう動作をさせるために設定が出てくるのだろうか。それとも、設定自体は結構アバウトに決まるもので、その中で動作を決めていくのだろうか。
僕は混乱してしまった。芝居を作るための出発点、きっかけが分からなかった。それほどに、シーンの設定や役者の動作、小物などの使い方がかみ合って作用しているのだ。
たくさん質問はあったが、そのうちの大事なもののほとんどが、「万田さんはどこまで事前に考えていたのか」につながっていった。
万田さんの演出の特徴として、芝居の段取りを自分の身体を使って考える、という事があげられるが、これも「事前に考えてきたこと」から、お芝居を現場で作っていくうえでとても重要な作業となっているようだ。
インタビューでは、万田さんが事前に考えてきた事というのが、思いのほか少ないことがわかった。現場でお芝居を作るきっかけとして、最低限の設定やポイント(今回でいうところの距離、しかも、お芝居を始めるときの最初の二人の距離のみ)ぐらいのことしか決めていなかったようだ。一体、それでどうやって、現場でお芝居を組み立てていくのか。
そこで、万田さんが行うのが、上記の自分で動いてみてお芝居を考えるという方法である。万田さんが現場でお芝居を臨機応変に変更できるのは、この手順によるところが大きいようだ。役者の目線に自分が立つことで、そこから何が見えるか、そこにお芝居に使える何があるのかを考えることができる、と万田さんは言う。


万田さん篇のDVDは万田さんがカット割りをして、実際に撮影に臨むまでが収められている。万田さんは、以前は現場に入る前にコンテを書いていたという。最近では、お芝居のリハーサルをするまで、事前にカット割は考えなくなったというが、この点に関しては単純には考えられないところがあるのではないだろうか。
役者の芝居が見えてこないと、カット割りが見えてこないのは確かにそうだが、その一方で画面の演出が大切であるのも事実だと思うからだ。お芝居の演出と画面の演出は、切り離せないものであるはずなのだけれど、かと言って、いい芝居を作ってそれをしっかりカット割りして撮れば、すばらしい映画になるのかといえば、一概にそうとは言えないかもしれない。万田さんもお芝居を決めた後でのカット割りの難点について触れている。以前のような、あらかじめカット割りを決めての撮影にも限界を感じていたのだが、現在のようにお芝居をつくってからのカット割りだと、どうしても説明的なカット割りになってしまう。役者が動いて、その表情を見せるためにカットを割って、今度はこちらから撮る、といったような、ある意味で見せすぎてしまうようなカット割りになる恐れがあり、それはそれでどうなのかと感じている。と、万田さんは言う。そういえば、インタビュー後にお酒の席で、「現場でお芝居をつくってからカット割りすると、平面的なカット割りになっちゃったりしないですか?」と自分のビデオ課題での経験を質問すると、万田さんも「そうなんだよね」と答えていた。自分がお芝居を見たい位置にカメラを置くので、俯瞰のショットなどがどうしても想像しにくい。


万田さんへのインタビューは、演出というものが、監督の中にあるものではないということ、こうすれば面白く映画が撮れるのだという正しい答えが、決してあるわけではないことを改めて知るきっかけとなった。


○インタビュー・西山洋市

万田さんへのインタビューが終わり、飲み屋から帰るときに「次は西山さん篇をお願いします」と井川さんが言った。
初耳だった。演出実習教材ビデオ化計画が、1年以上を費やす壮大な計画であることを知ったのはその時であった。


11期高等科は講師とのコラボレーション企画に入っており、僕は大工原組でチーフ助監督を担当していた。実習とはいえ、初めて経験する本格的な準備と現場に、精神的なプレッシャーはなかなかのものだった。しかも、当たり前のように問題山積みだった。
現場に入る直前、井川さんから激励のメールが届いた。メールの最後には、「終わったら西山さん篇お願いします」と付け加えられていた。僕は井川さんからの差し入れのお菓子を現場の誰よりもたくさん喰らった。さーたーあんだぎーの一個一個が井川さんの顔に見え、「西山さん篇…」と話しかけてくるように思えたのだ。


現場も終わり、まもなくインタビュー・西山さん篇の撮影が行われた。今回は万田さん篇に比べて当日までの日数があまりなく、急ぎ足で西山さんの監督作と演出実習映像を見た。


演出実習2007・ホン読み篇は、とても編集が難しかったのではないかと思った。僕にいたっては、段階を分け、しっかり字幕の入った編集版を見なければ、何が行われているのかすら分からなかったかもしれない。西山さんの行っているホン読みは独特というほかないのである。そもそも、ホン読みとはここまでやるものなのか。
例えば段階2(と、編集版では定義されている)で、まず間をつめて読ませている。さらには、それぞれの役のセリフだけを連続して読ませている。恐らくこれは、相手のセリフに影響されないようにするためなのだろうな、ということは分かる。が、なぜそうするのか具体的な狙いが分からなかった。
そして、低い声で、抑揚をつけずに読んでもらう。特に、声を低くすることにはかなり執着している。役者がやりづらそうでも、さらに低く、というような指示まで出している。一体なぜか。
西山さんによると、この段階は役者個人の解釈を一度フラットにする作業であった。シナリオをあらかじめ読んでくると、どうしても出来てしまう先入観のようなものが、間や抑揚に入り込んでしまうのだという。
では、西山さんはどうなのだろうか。西山さんも、あらかじめシナリオを読んできているのだから、先入観のようなものを持ってしまわないのだろうか。
今までの経験から、実際に役者に会うまでは、なるべく何も考えないようになってきたのだと、西山さんは言う。自分がシナリオを読んでイメージしてきた芝居は、実際に演じてもらうと大抵裏切られ、がっかりする。しかし、そのがっかりには意味がないのだ。自分がイメージしたものと違うものが出てきたほうが面白い、ということが分かってきたのだ、と。これは、顔見知りの役者のときでも変わらず、シナリオが違う以上は毎回違うのだと言う。
ここで、万田さん篇の時との共通点が出てきた。
演出が、監督の中にあらかじめ存在するものではない、ということ。
この時点になって、初めて気づいたことがあった。西山さんが、役者の二人に対して行う質問、それに対する役者二人の答えの重要さである。二人は、西山さんの質問に対して、とても素直にどう感じるかを答えている。西山さんはその答えを聞いて、一緒に考えて、そこでやっと見えてくるシナリオの解釈を、最終的に役者に伝えていたのだ。
危険なのは、見方によっては西山さんが狙ってやっているように見えてしまうことだ。段階4で、二人のキャラクターのこの親密さなら、(良江役の役者が冷たいと感じた)そっけないぐらいのしゃべり方が普通じゃないのか、という解釈が出てきたとき、誰もがはっとしたと思う。少なくとも、僕はした。そして、性懲りもなく、西山さんがこの解釈へ向かって、今までのプロセスを行ってきたのだろうか、と思ってしまったのだった。


そうした解釈などとは別のところの、西山さんのこだわりとしてある「セリフを低く、大きく読んでもらう」という演出には、西山さんのセリフに対する考え方がぎっしりつまっている。普段しゃべる時とは違う声の発し方をしてもらうことで、芝居でセリフをしゃべるということに意識的になってもらい、西山さん自身も、セリフというものが意味内容だけではなく実際に声に出していうものだということを確認しているのだという。これは、映画の中でフィクションの世界を立ち上げることにも関係しているのではないだろうか。西山さんは、「フィクションの世界の中で、セリフというものが、純粋な音としてどういう可能性があるのか、今よりもより具体的に、実践的に、つきつめていきたいと常に思っている。今はまだ途中の段階だ」と答えてくれた。
この点に関して、15分に編集されたものとは別のインタビュー・完全版(約60分)にて詳しく返答が聞けるので、そちらも是非参照していただきたい。


○インタビュー・井川耕一郎篇

西山さん篇から約1ヶ月ほど後、井川さん篇のインタビューが行われた。
しかしこの井川さん篇が、北岡さんにとっても、僕にとっても、また井川さんにとっても一番の難関になることは明らかだった。ずっと前からそう思っていたし、実際やはり難しかった。今まで井川さんと北岡さんは、各講師の演出を客観的に分析し、分節して編集する作業を行ってきたわけだが、今回は井川さんである。井川さん自身は自分の行っていることを客観的に見れないと言うし、そうなると客観的な視点で分析・編集できるのが北岡さんだけになってしまう。万田さんも西山さんも、編集されたDVDを見て「なるほど、俺はこういうことをやっていたのか」とおっしゃっていた。それは分析と編集の的確さを表している一方で、本人たちは自分が行った演出のプロセスを自覚しているわけではないということも示している。
僕のほうも、11期の時の井川さんの演出実習を目の前で見ていたので、井川さんの演出がどういう感じで進められていくのか、知らないわけではなかった。そして、あんな感じなのだとしたら、どうやって45分にまとめるのだろう。質問も難しそうだな。と、思った。


井川さんの演出は、リハーサル篇ということもあってか、繰り返し演じてもらう回数がとても多い。それも、シナリオにおいて冒頭1〜2行目でしかない最初のやりとりにはいるまでの動きを、何度も繰り返し演じてもらう。
これは、11期の時も同じであった。何度も何度も同じ部分を演じてもらい、しかもその度何か指示をするでもなく、「もう一回お願いします」とだけ言ってやってもらう。その後のお酒の席で、井川さんにどうしてそういうやり方をするのか尋ねた。井川さんは、自分もわからないから何度も演じてもらうんだ、とおっしゃっていた。
多分その時が、演出というものが監督のなかにあるものではない、という事に直面した初めての機会だったと思う。
今回のインタビューでは、さらに興味深い返答を聞くことができた。
なぜ、冒頭からあんなに繰り返すのか。それはシナリオを書くときと近い感覚なのかもしれない。冒頭1,2行がうまくいかずに何度も消しては書き直す。それは、うまい書き出しを書くためではなく、何か次に続きそうだな、という感じがするまで繰り返しているのだという。
これは、西山さん篇のキャスティングを入れ替えたことについての返答にも共通しているかもしれない。西山さんは、元々のキャスティングでもよかった、むしろはまっていた。が、入れ替えてみたときに、試行錯誤をしなくてはならなくなったけれども、何か違うものが出てきそうな予感がしたのだという。
自分の中にある既成のイメージとは違う、目の前にいる役者で芝居をつくっていくうえでこの感覚はとても重要なのではないだろうか。
井川さんは今回、最初に役者の二人に設定上の細かい部分を自分で考えてもらっているが、ちひろ役の福井さんに座る位置を決めてもらった時、内心まずいと思ったらしい。お芝居の中で、ちひろが圧迫感を感じて良江から逃げるように距離をとる、という動きをつけようと思っていたのに、その位置は全く逃げ場がないじゃないか、と。
試行錯誤しなければならない状態に陥ってしまったのである。が、その結果、ちひろに面白いアクションが生まれ、それに対して良江役の今岡さんにもいいリアクションが生まれることとなった。


井川さんは役者自身の無意識の仕種や、ひとりでに出てくるものをお芝居の中に取り入れている。この人はどういう動きをすれば面白いのか。それを導きだすためにも、回数を重ねる必要があるのだろう。あるいは、役者自身が何か考え始めるまで、永久に出てこないかもしれない。それは、自然な演技、ナチュラルな芝居というものとは違い、相手の動きや言葉に対して、ひとりでに出てしまう反応のようなものである。演出における井川さんの試行錯誤は、この反応を導きだすための課題を、どうクリアしていくかの過程なのだという。
今回でいうところの、「良江の芝居がちひろを動かす」、「ちひろの芝居が良江を動かす」である。ちひろ役の福井さんが、圧迫感を感じて思わず少しイスをずらす仕種があった。冒頭の芝居を何十回も繰り返してやっているのは、その仕種を導く良江の動きを発見するためでもあったはずだし、その後は距離をとろうとするちひろを、良江が追いかける必要があり、良江役の今岡さんが思わず追いかけてしまうような動きをちひろにつける必要があった。福井さんが机の上をまたいでいく距離がどんどん長くなったのはそのためだという。
面白いのは、最初から考えていたお芝居ではないはずなのに、キャスティングの際に福井さんを指名した理由と、この動きがマッチしていっていることだ。
以降の芝居も、今岡さんはひとりでに動いているように見える。福井さんの芝居によって、そう動いてしまう。そして井川さんはそれを見て「どうして今岡さんはそうしたのだろう」と考え始める。すると、芝居中のセリフとは別のところで今岡さんがこぼした言葉などがヒントとなる。
これもひとりでの仕種などと同じであろう。井川さんはそれを見逃さない。
ここでも、演出が監督の中にあるものではない、ということが明らかになった。
井川さんの場合、それが役者に対しての話しかけ方からも表れている。井川さんは「こうしてください」とは決して言わず、「こうしたらどうなりますか」と言うのである。
つまり、「指示」ではないのだ。


万田さん、西山さん、井川さん、それぞれ演出の方法は全然違うのに、一つの共通したものを見つけることができた。
演出が監督の中にあるイメージに近づける作業では決してないということ。
だから、このビデオを決して教則本のように見てはいけないと思う。


冨永圭祐:1983年生まれ、映画美学校11期高等科生。高等科修了制作シナリオ選考で、シナリオ『乱心』が選ばれ、現在撮影に向けて準備中。完成した作品は、来年度の映画美学校映画祭にて初お披露目予定。