『演出実習2007』製作ノート(5)(井川耕一郎)


7.「ホン読み篇」(西山洋市の授業)について

 西山さんが演出実習の授業で行ったのは、ホン読みとリハーサルだった。
 ただ、リハーサルは西山さんが初等科生の前で演出してみせるという感じではなく、さまざまな設定を考えて生徒と一緒に芝居を模索してみるというものだった。
 これはこれで授業としては興味深いものだけれど、講師をサンプルに演出について考察するという私たちの方針からはずれる部分があった。なので、ホン読みの部分だけを45分にまとめることにした。
 また、一番最初のホン読みでは、秦俊子さんがちひろを、原貴子さんが良江を演じているのだが、途中でそれを逆にするという事態が起きている。
 この役の変更にいたる過程を授業のダイジェストに組み込むかどうかは北岡さんと悩んだところだったが、最終的に45分にまとめるためにカットした(ただし、冨永くんによるインタビューでは、この件について西山さんに尋ねている)。


 西山さんの授業をまとめた「ホン読み篇」を見て、万田さんは、あれは役者の演技に絶望したことのあるひとがやるホン読みだよね、というようなことを言っていた。万田さんのこの言葉は、西山さん流のホン読みがどのように始まったのかを言い当てているように思う。
 役者の中には、感情をたっぷりこめて演技するのが正しいのだと思いこんでいるひとがいる。
 けれども、そういう役者の芝居を見ていてつい思ってしまうのは、この演技には感情の説明しかなくて、肝心の感情がないではないかということだ。あるいは、役者が感情の説明ばかりしていて、登場人物を演じるのを忘れているといったらいいだろうか。
 似たようなことはホン読みを見学しているときにも時々感じる。
 思いきり感情移入してホン読みをする役者の声を聞いていると、セリフがさっぱり頭に入ってこないときがある。その役者の声が「この声の主は今ここにいる私ですよ」というメッセージを伝えようとばかりしているからである。
 また、ホン読みが白熱しているように見えるときにも、危険なものを感じてしまうことがある。役者同士が感情移入の能力を競い合っているだけで、演じるべきドラマがどのようなものかを忘れている場合があるからだ。


 西山さんのホン読みを見てまず感じたのは、西山さんの指示が「演技とはこういうものだ」という思いこみの解体を目指しているのではないか、ということだ。
 「抑揚をつけずに」という指示は、「演技とは感情をこめるものだ」という思いこみを解体するためのものなのだろう。
 「間をつめて」もそうだ。インタビューの中で西山さんは、間の中には余計な感情や表情が入りこんでしまいやすい、と言っているけれども、「間をつめて」は、それら夾雑物を排除するための指示だろう。
 それから、「声を低く」という指示は女性に対しては有効なものかもしれない。「女の子らしさ」という紋切り型を演じるには、高い声を発するのが手っ取り早い方法だからだ。


 だが、西山さんのホン読みが何を目指しているのか分からないものになっていくのは、これらの指示が何度かくりかえされたあとからなのだ。
 「低い声でボリュームを上げて」だとか、「低い声で元気よく」といった指示は何なのだろう? 声を発するのがとても難しい指示のように思える。嫌がらせすれすれの指示と言ってもいいのではないだろうか。実際、演じている秦さんも原さんも西山さんの指示にとまどっているのが記録映像からもよく分かるのである。
 それから、もう一つ気になることがある。そもそも、演技に対する思いこみを解体するようなホン読みが、原さんと秦さんに必要だったのかということだ。
 自分の思ったとおりにホンを読んでみて、と西山さんに言われて、二人が行った最初のホン読みは悪くないのである。過剰な感情移入を避けているのだ。なのに、なぜ西山さんは上に記したような指示を二人に出していったのか。


 どうやって分節化したらいいかを考えながら、西山さんの授業の記録映像を見ているうちに気がついたことがある。
 30分経過したあたりから、ホン読みの進め方に変化があらわれるのだ。
 それまでのホン読みは西山さんが次々と指示を出し、それを秦さんと原さんが実行するというふうに、西山さん主導で行われてきた。
 だが、西山さんが演じる二人に「もう何回くらい読んだかな……。自分の中で、役に変化は出てきた?」と尋ねだしたあたりから、様子がちょっとちがってくるのである。秦さんも原さんも、自分が身をもって感じたことを素直にできるだけ正確に話そうとする。すると、西山さんは二人の言葉をじっと聞いてから、ホン読みの新たな指示を出すようになるのだ。
 30分目を境に、ホン読みの主導権が西山さんから演じる二人の生徒へと移りかけているとでもいったらいいだろうか。特に良江役の秦さんの言葉は、西山さんの思考力をかなり触発しているように見えるのである。


 ――と、そこで私はふと思ったのだった。
 ひょっとしたら、今回のホン読みでは、最初の30分間は演技に対する思いこみの解体を目指すというより、30分目以後の役者との対話を準備するために行われていたのではないか。
 だとしたら、30分目以後の演出作業を分節化するには、西山さんを中心に記録映像を見ていてはだめだろう。演じる二人の生徒、特に秦さんの言動に注意して見る必要がある。
 そこで、私は北岡さんに次のようなメールを書いて送ったのだった。

北岡さんへ


ビデオを何度か見ていてどう整理したらいいか分かった。
西山さんのホン読みは、大体、次のような流れで進んでいますね。


(1)まずは役者の思ったとおりにホン読みをしてもらう。


(2)抑揚をつけずに、間をつめて、低い声でホン読みをしてもらう。
 さらに、低い声で大きく元気よくホン読みしてもらう。
 こうすると、役者はセリフに感情をこめることが難しくなる。


(3)上記(2)の読み方をしてどう感じたかを役者に尋ねる。
 このときに、役者は不自然で無理な読み方をしているときに感じた違和感をとおして、登場人物の感情を再発見する。
 また、自分の身体(発声)と登場人物のキャラクターを結びつけて意識的に考えるようになる。


(4)上記(3)で感じたことをふまえて、
 ホンの解釈を行い、ドラマの流れに沿った具体的な指示を出して、ホン読みをする。
 全体を通しで読んだあと、いくつかのブロックに分けて細かく指示をする。


というわけで、編集の方針ですが、
まずは、西山さんのホン読みが四段階になっていることを字幕で明確に示す必要がありますね。


で、次に重要なのが(3)なのだ。
ここは一見すると、休憩時間の雑談のように見えてしまう。
ところが、ちがう。
西山さんは役者の言葉に触発されるようにして演出を考えている。
(3)がないと、(4)での指示は出せないのだ。
なので、(3)で何が起きているかを丁寧に分節化しないといけないでしょう(注10)。


井川


 編集作業中のことで印象に残っているのは、北岡さんの言葉だ。西山さんがシナリオの解釈を話しだすあたりで、北岡さんはマウスを持つ手を止めると、ふっと笑ってこう言ったのである。「何だか、西山さんと生徒のやりとり、劇映画みたいですよね。シナリオがあったんじゃないかな?」
 たしかにそんな冗談を言いたくなるくらい、ここは劇的な展開なのだ。
 秦さんと原さんがホン読みをやってみて感じたことを話しているうちに、話題はシナリオそのものに対する感想になる。すると、秦さんが違和感を感じてどうしてもひっかかってしまうセリフということで問題にするのが、「そっちに分かんないって言われたら、こっちだってどうしようもないよ。何もしてやれないよ」なのである。
 「撮影現場・段取り篇」の解説でも書いたように、このセリフはちひろの「ねえ、どうしてそんなにわたしのこと心配してくれるの?」というセリフと並んで、シナリオを解釈するときに一番注意して読まなければならないものである。それを秦さんはずばり指摘しているのだ。
 そして、秦さんの指摘を受けて、西山さんはちょっと考えてから自分の解釈を話しだす。親しい間柄なら、これくらいそっけない言い方をするものじゃないかな。良江とちひろは中学くらいからの長いつきあいなんじゃないだろうか、と(注11)。それから、西山さんはもう一回、秦さんと原さんにホン読みをしてもらうと、すぐに具体的で細かい指示を出していくのである。
 このあたりの秦さんと西山さんのやりとりの無駄のなさは、ちょっと普通ではない。シナリオがあったんじゃないかと疑いたくなるくらい、二人の思考は見事に連結・連動している。


 だがそれにしても、西山さんのシナリオ解釈と具体的な指示を成立させている条件とは何なのだろう。秦さんの「そっちに分かんないって言われたら〜」というセリフに対する違和感だけなのだろうか。
 「ホン読み篇」を見直して気になったことがある。シナリオを解釈する段階に入る直前、西山さんはふいにホン読みに割りこむようにして秦さんに言うのだ。「ちょっと待って。今のニュアンスを声を低くしてできないかな」
 このとき、西山さんが言っている「ニュアンス」とは何なのだろうか。良江の感情をどう表現するかというようなことではないだろう。それなら、西山さんはホン読みを途中で止めたりせず、最後まできちんと聞いたはずである。
 西山さんが言う「ニュアンス」とは、冒頭の良江の「どうした?」というセリフだけで分かるようなものでなくてはおかしい。つまり、それはドラマが始まる前の良江、日常生活を送る普段の良江、言い換えれば、良江の存在感みたいなものではないだろうか。
 登場人物が今ここに存在しているという感じが表現できているかどうかを見きわめること――このことも、シナリオ解釈と具体的な指示を成立させる重要な条件の一つにちがいない。
 では、西山さんの「今のニュアンスを声を低くしてできないかな」という指示の「声を低くして」は何を目指しているのだろうか。
 冨永くんによるインタビューの中で、西山さんは、「間をつめて」や「抑揚をつけないで」といった指示はシナリオの解釈にかかわるものだが、「声を低く」はそれらとはちがって、役者の身体に直接かかわるものだ、と答えている。「声を低く」という指示は、役者に自分の身体を意識してもらうためのものだ、と言っているのだ。
 つまり、こういうことではないだろうか。西山さんの「声を低く」という指示は、秦さんがあまり意識せずに表現できてしまった良江の存在感を次から意識的に表現できるようにするためのものであった、と。


 西山さんのホン読みについては次のように整理することができる。
 西山さんがまずやろうとしたことは、何となく分かった気になっている状態を排除することだった。
 そのために、西山さんは自分自身に対しては「役者に会うまでは、何も考えない」という指示を出す。
 また、役者に対しては、「間をつめて」や「抑揚をつけないで」といった指示をとおして、ドラマや登場人物について意識的に考えることを求め、「低く大きな声で」という指示をとおして、自分の身体に意識的になることを求める。
 だが、西山さんがホン読みをする役者の声から注意深く聞き取ろうとしているものは、役者の意識的な努力の成果ではない。役者が無意識のうちに表現してしまった登場人物の存在感を聞き取ることが大切なのだ。なぜなら、それこそが西山さんを触発し、演出について具体的に考えるようにうながすきっかけとなるものだからである(注12)。


 似たようなことはリハーサルの段階にも言えるだろう。
 リハーサルの途中で、西山さんは助監督の生徒に意見を求める。すると、その生徒は、ちひろ役の原さんがイスに座っているというふうにしてみてはどうでしょうか、と提案し、実際に原さんにイスに座ってもらう。だが、西山さんはそれを見てこう言うのである。「これは直感でしかないんだけど、原さんは立っていた方がいいね。そう思わない?」
 このとき、西山さんが思い出しているのは、試しに自由に演じてもらった一回目のリハーサルだろう。そのときにちょっと困ったように突っ立っていた原さんの姿に、西山さんは触発されたのだ。原さんの身体が無意識のうちにちひろの存在感を表現していた、と言ったらいいだろうか。
 おそらく、西山さんが演出するときに重視しているのは、その役者だけにしかできない存在感の表現、その役者の身体の独自性であると言えるかもしれない。


注10:完成した「ホン読み篇」の構成は以下のとおり。


 (1)役者の解釈によるホン読み

 (2)役のイメージを白紙に戻すホン読み

 (3)役者との対話
   (a)違和感の確認
   (b)間について考える
   (c)発声とキャラクターの関連について考える

 (4)解釈と演出を考える。
   (a)シナリオの解釈
   (b)具体的な指示


ただし、西山さんによると、実際のホン読みでは、「役者との対話」が一つの段階としてはっきり分かるような形で行われるとは限らないとのことである。


注11:西山さんのシナリオ解釈は、誰でも思いつくことができそうな当たり前のものに見える。ところが、初等科生の多くはこの当たり前の解釈ができず、つまづいてしまう。ちひろの「ねえ、どうしてそんなにわたしのこと心配してくれるの?」というセリフにひっかかりを感じても、そこからちひろと良江の関係について考えることができない。
ちひろのセリフを彼女の内面を表現するモノローグというふうに受け取り、「わたしのことを心配してほしいのに……」の反語的表現であると解釈してしまうのだ。なので、ちひろの芝居は伝わる見込みのない思いを独り言としてしゃべり続けるだけの芝居となってしまう。
一方で、良江の「何もしてやれないよ」というセリフは、文字どおりちひろを突き放す良江の冷たさを表現しているものと受け取られる。だから、良江はちひろを無視したり、避けたりする芝居をあからさまにしてかまわないということになってしまう。
つまり、ちひろと良江は同じ空間でそれぞれ一人芝居を演じているだけとなり、二人の間に関係が成立しなくなってしまうのである。


注12:西山さんが何となく分かった気になっている状態を排除しようとするのは、役者の身体の独自性を発見するのに適した環境をつくるためである。この点を見落として西山さんのホン読みを真似すると、途中でどうしていいか分からなくなり、失敗する。