『演出実習2007』製作ノート(4)(井川耕一郎)


6.『撮影現場・段取り篇』(万田邦敏の授業)について

 万田さんは演出実習の授業で、リハーサルを行ってから、実際に撮影をしている。
 そこで、私たちはリハーサル部分を45分にまとめ、インタビューのあとに完成作品をつけるという構成を考えた。だが、万田さんに撮影したテープのことを尋ねると、どこにあるのか分からないとの答がかえってきた。
 インタビューの中で万田さんは、リハーサルで決まるのは芝居の大まかなところまでで、細かな部分の演出は1カット1カット撮るときに行う、と語っている。
 万田さんの演出の全過程を紹介しようとするなら、『撮影現場・段取り篇』に完成作品の収録は必要不可欠だったはずなのだが、それができなかったのは残念である(注6)。


 万田さんの演出作業の分節化はそれほど難しいものではなかった。万田さんは新しい段階に進むたびに「これから〜をやります」というふうに生徒たちに説明していたからだ。
 けれども、演出しているときの万田さんが何をどのように考えているかを読み取る作業は容易ではなかった。
 万田さんは一階のロビーのイスを並べなおし、良江の部屋をつくると、その簡単なセットの中を歩き回りだした。どうやらシナリオをいくつかの部分に分け、まずは良江を演じ、次にちひろを演じ……というふうにして芝居を考えているようだった(注7)。
 そこで私たちはこの段階を「芝居を考える(身体を使って)」と名づけた。
 それから、万田さんは演じる二人の生徒に声をかけ、自分が考えた芝居を説明し、試しに一度演じてもらうのだが、この「段取り1(説明しながら)」という段階で、私たちは、おや?と思ったのである。
 良江役の生徒が「じゃ、何なのよ」と言ってベッドに腰かけてから、「ねえ、あんた、一生、宝塚やってるつもり? その気さえあれば、彼氏なんてすぐできるよ」と言うまでの芝居を見て、万田さんが「何かやらないと、芝居がもたないね」と言いだしたからだ。


 実はその前の「芝居を考える(身体を使って)」の段階で、万田さんはベッドに腰かけると、ひじをついてちょっとだけ横になる姿勢をとっている(おそらく、良江が「ねえ、あんた、一生、宝塚やってるつもり」と言うあたりの芝居を探っていたのだろう)。
 けれども、万田さんはすぐに上半身を起こすと、この動きはちがうな、というふうに首をふり、立ち上がってちゃぶ台のところまで歩いていったのだった。
 ということは、芝居を考える段階で、万田さんにはベッドにただ腰かけたままの芝居ではもたないということがすでに分かっていたのではないだろうか。
 ここで私たちは二つの疑問を感じることになる。
 一つ目は、なぜ万田さんはちょっと横になる以外の動きを事前に考えることなく、「段取り1(説明しながら)」の段階に進んだのかということ。
 二つ目は、「段取り1(説明しながら)」の段階で、万田さんが良江の芝居に新たにつけ加えた動作に関することだ。
 万田さんは良江の芝居をもたせるには何か小道具が必要だと考え、クッション(といっても、毛布をたたんだものだが)をベッドの上に置く。そして、良江役の生徒に「ねえ、あんた、一生、宝塚やってるつもり?」と言いながら、クッションをひざの上に乗せるように指示するのである。
 どうして、クッションを使った動作が芝居をもたせるためにふさわしいものとして選ばれたのだろうか?――これが二つ目の疑問である。


 この二つの疑問を解くためには、課題シナリオを読み直す必要があるだろう。
 一読したときには分かりやすいシナリオのように思えたのだが、何度か読み直しているうち、私たちはちひろと良江の会話にひっかかりを感じるようになる。
 ちひろの「ねえ、どうしてそんなにわたしのこと心配してくれるの?」というセリフがそれだ。
 課題シナリオの中で、良江はちひろを心配するようなことを何一つ言っていないのである。特に「そっちに分かんないって言われたら、こっちだってどうしようもないよ。何もしてやれないよ」というセリフなどは心配するどころか、ちひろを冷たく突き放しているようにしか読めない。
 にもかかわらず、ちひろには、良江が自分のことを心配しているように感じられるのはなぜなのだろうか?
 この問に答えるには、字面というか言葉のレベルだけでシナリオを読んでいてはいけないだろう。身体のレベルでシナリオを読み直す必要がある。
 要するに、ちひろは、「じゃあ、何なのよ」以後、良江の身体がセリフとはちがうメッセージを発していると感じたのだ。良江の声、仕草、たたずまいなどが「あなたを心配している」と告げているように感じられ、身体レベルの発するメッセージこそ、良江の本当の気持ちなのだ、というふうに思ったのだろう。
 そして、たぶん、万田さんもこれと同じシナリオの読み方をしていると思う。「何かしないと、芝居がもたないね」の「何か」とは、セリフとはちがうメッセージを身体が発することを指しているはずである。


 言葉のレベルと身体のレベルとで正反対のメッセージを発するような芝居をするなどと書くと、恐ろしく難しい芝居のように見えてしまうかもしれない。
 けれども、それはちがう。課題シナリオのもととなった矢部真弓さんの5分ビデオ課題は、完璧とは言わないけれども、それを実現している。良江役の生徒の、ひとの良さそうな、おっとりした顔つきが、セリフとは異なるメッセージを発していたのだ。
 演じるひとが素人であっても、どこかに良江と共通する部分があれば、身体がセリフとは正反対のメッセージを無理なく自然に発してしまう場合があるのである。
 万田さんが「芝居を考える(身体を使って)」の段階で、良江のベッドに腰かけてからの芝居を細かく考えなかったのはなぜなのだろうか?
 それは、良江役の生徒の芝居を見てから考えた方がよいという判断が働いたからだろう。役者が何気なくやってみせた仕草の中に演出のヒントがあるかもしれないからだ。
 ところが、良江役の生徒はひどく緊張していて、ベッドに腰かけるとそのまま体がかたまってしまった。
 そこで、万田さんが考えたのは、クッションを使った芝居だった。クッションをひざの上に乗せて前かがみになることで、良江とちひろとの距離はちょっとだけではあるが縮まる。そうすることで、口では何と言おうと、ちひろの相談に乗る親密な雰囲気が良江役の生徒の身体から出るようにしたのだろう(注8)。


 「段取り1(説明しながら)」のあと、万田さんは芝居を最初から最後まで通して演じてみる「段取り2」を行い、「段取り3」に移った。ここで、万田さんは芝居を五つのパートに分けて、細かく演出を行っていくのだが、その中で気になった演出が二つあった。
 一つは、良江が「そっちが分かんないって言ったら、こっちだってどうしようもないよ。何もしてやれないよ」と言うあたりの芝居。ここは、「段取り1」では、良江はベッドから立ち上がると、ちゃぶ台の前に座るというふうになっていた。万田さんはそれを良江がちゃぶ台に腰かけるというふうに変更したのである。
 これは、「段取り1」で決めた芝居だと、良江の身体がセリフとはちがった親密なメッセージを発することが難しいと考えたためだろう。たしかにちゃぶ台の前に座ると、ベッドに腰かけていたときよりちひろと離れてしまうのである。それに、二人の間にちゃぶ台が障害物のように置かれることになってしまう。
 だが、「段取り3」で重要なのは、良江が「どうした?」とちひろに尋ねるまでの芝居に対する演出ではないだろうか。万田さんは自ら布巾を手にすると、こういうふうにちゃぶ台を拭いてほしいと手本を見せたのである。


 万田さんはインタビューの中で言っている。人間は一度に一つのことしかできない、と。
 芝居をするときには、登場人物がそのとき何を一番意識しているかに注意してほしい、と言っているのだ。
 たしかにシナリオに書かれている芝居は、ちひろと良江の関係の変化である。けれども、良江は常にちひろを意識しているわけではない。「どうした?」と言うまでの良江が一番意識しているのは、食後の後片づけをすることなのである。
 このことから、万田さんが演出するときに何に気をつけているかがうっすらと分かる。
 万田さんは人間の身体をいくつかのレベルに分けて考えている。この演出実習の場合には、たぶん、三つのレベルだろう――言葉を発する身体のレベル、言葉と矛盾するメッセージを発する身体のレベル、日常生活を送る身体のレベル。
 そして、関係が変化するにつれて、どのレベルの身体が重要になってくるかが変わってくるというふうに考えているにちがいないのだ(注9)。


 その点で興味深いのは、良江が「当たり前じゃん」と言うあたりの芝居だろう。
 「段取り1」で、万田さんは小道具として紙コップ(コーヒーカップのつもり)を二つ、新たに追加し、「当たり前じゃん」と言ったあとに、それを持って台所に行くように指示している。
 このとき、万田さんはこう考えているのだ――良江はちひろの愛情を感じ取り、内心とまどっている。しかし、そのとまどいを表に出して、ちひろから離れるという芝居ではどこか幼稚だ。だったら、コーヒーカップを洗うという口実で、台所に逃げたらどうか。
 要するに、万田さんは、三つのレベルの身体のうち、言葉と矛盾するメッセージを発する身体を抑圧しているのだが、抑圧することで逆説的にそれこそが重要だと示そうとしているのである。
 これはちょっと複雑な演出かもしれない。けれども、これとよく似た演出について、吉村公三郎は『日本映画を読む パイオニアたちの遺産』(ダゲレオ出版・84年)という本の中で次のように語っている。

たとえば、夫婦の間にいさかいがあるという場面で言いますと、NHKのドラマなら、どちらか一方がプイと立って、何の用もないのに窓や縁側に行き、相手にお尻を向けて会話したりする。ひどいのになると、壁の方を向いて喋ったりする。テレビ・ディレクターは、こういうのが演出だと思っているフシがある。蒲田ではこういうことは許されないんです。どうするかというと、お皿を重ねて台所へ行って、後片づけをするという一連の自然な動作の中で会話を続けるというように撮りますね。そうすれば、ドラマの中に会話も動作も無理なく溶け込むわけですからね。
吉村公三郎「第二章 蒲田調・大船調」、『日本映画を読む パイオニアたちの遺産』)


 つまり、万田さんが演出実習でやっていることは別に新しいことでも何でもない。かつては常識的に行われてきた演出なのである。


注6:『撮影現場・段取り篇』というタイトルについては、ちょっと説明しておいた方がいいかもしれない。
私たちはあとでつくる『リハーサル篇』と区別するため、万田さんに撮影前に行う芝居に関する作業のことを何と呼んでいるのかと尋ねてみた。すると、かえってきた答は、「リハーサル、テスト……、あるいは段取りかな」というものだった。
三つの答のうち、「段取り」を選んだのは、それが形だけの演技というマイナスのイメージを持っていたからだった。段取りであっても、これくらい丁寧に演出は行われるべきではないか、という意味をこめて『撮影現場・段取り篇』としたわけである。


注7:インタビューの中で、万田さんは、ロケ場所を実際に歩き回って、役者の目に見えるものなどを確かめてからでないと、芝居については何も考えられない、と言っている。
ということは、「芝居を考える(身体を使って)」の段階で、万田さんは良江を演じるときには、良江の目にちひろと部屋がどう見えるかを想像しながら、そして、ちひろを演じるときには、ちひろが後ろにいる良江の気配をどう感じているかを想像しながら、芝居を考えていったということなのだろう。


注8:クッションをひざに乗せて前かがみになるという姿勢は、防御の姿勢のようにも見える。万田さんは、ちひろと距離をおいてつきあいたいという良江の無意識の欲望をクッションを使う芝居の中にこっそりこめていると言えるかもしれない。


注9:万田さんが授業で行った演出は次のように整理できるだろう。


(1)「芝居を考える(身体を使って)」の段階では、万田さんは自分の体を動かしながら「言葉を発する身体のレベル」を中心に芝居を考えている。と同時に、万田さんは、シナリオのどの部分が「言葉と矛盾するメッセージを発する身体のレベル」の芝居を要求しているかの確認も行っている。


(2)「段取り1」の段階では、役者が「言葉を発する身体のレベル」の芝居を行っているけれども、万田さんにとって重要なのは、役者が自分の考えたとおりに動いているかどうかを確認することではないだろう。この段階で万田さんが考えようとしていることは、「言葉と矛盾するメッセージを発する身体のレベル」の芝居をどうするかである(この課題を考えるには、演技する役者を見なくてはならない)。


(3)「段取り2」の段階では、役者は「言葉を発する身体のレベル」と「言葉と矛盾するメッセージを発する身体のレベル」の芝居を行っている。しかし、万田さんがどうすべきかを考えているのは、「日常生活を送る身体のレベル」の芝居である。


(4)「段取り3」の段階では、万田さんは「日常生活を送る身体のレベル」を中心に芝居を考えている。また、「日常生活を送る身体のレベル」と重なる部分が大きい「言葉と矛盾するメッセージを発する身体のレベル」の芝居についても、どうしたらいいかを再考している。