演出実習2007製作ノート(6)(井川耕一郎)


8.「リハーサル篇」(井川耕一郎の授業)について

 「リハーサル篇」はなかなかつくる気にならなかった。というのも、分析の対象が私の授業だったからだ。自宅で素材となる記録映像を見ようとするのだが、一、二分見たところでビデオを止めてしまうということが何度かくりかえされた。実習の内容以前に自分の姿や声にうんざりしてしまうのである。
 しかし、こういう自己嫌悪はナルシシズムの裏返しみたいなものだ。いつまでもイヤだイヤだと言っているのもみっともない。塩田明彦の授業が素材として使えないのだから、これで「リハーサル篇」をつくるしかないのだ、と自分に言い聞かせていたところに、北岡さんから連絡があった。
 素材をパソコンに取り込むところまではやったのだが、どうやって45分のダイジェストをつくっていいか、まったく方針が見えないとのことだった。

 私のリハーサルのやり方は、演技経験があまりない素人のひとに出演してもらうときのものだ。
 まずはシナリオの一行目をくりかえし演じてもらう。そして、先に進めそうな感じになってきたら、今度は二行目までをくりかえし演じてもらう。そうやって演じる芝居の量を一行ずつ増やしていくのである。演技することにちょっとずつ慣れていってもらうやり方と言ったらいいだろうか。
 驚き呆れたのはリハーサルの回数だった。私は20〜30回くらいだろうと思っていたのだが、そうではなかった。北岡さんがカウントしたところ、88回やっていたというのだ。これにはもう笑うしかなかった。


 だが、北岡さんを困らせていたのは、リハーサルの回数の多さだけではなかった。リハーサルの一回一回の意味がよく分からない。そのため、リハーサルの何回目を使って、何回目をカットしたらいいかという編集方針が立てられない、と言うのである。
 そこで、私たちは学校の編集室で素材の記録映像を頭から見ることにした。
 それは何とも奇妙な体験だった。二年前に自分がやったことなのに、そのほとんどを忘れている。なのに、見ているうち、ああ、こいつは次にこんなことを言うだろうな、と画面の中の自分の考えが想像できるのである。「思い出す」というのとはちがう。まるで未来の自分の行動を予測しているような変な気持ちになってきたのだ。
「さっき、ちひろ役の福井(早野香)さんがちょっとイスをずらしただろ。こいつはきっとそれが気になってる。だから、『もう一回お願いします』と言うはずだよ……ほら、言った」
 そんなことを半分冗談みたいに言っていると、北岡さんがふいに画面を止めた。そして、私に質問をしだしたのである。


「井川さんはちひろ役の福井さんの芝居が変わるといいなと思っても、福井さんには直接何も言わないんですね。そのかわり、良江役の今岡(陽子)さんに、ちひろの芝居を変えるような芝居をするように指示を出している」
「ああ、そうかもしれないね」
「で、良江の芝居をああでもないこうでもないと変えていくうち、ちひろ役の福井さんが思わず反応して体を動かす。その無意識の動きを見て、井川さんは、あっ、これは使えそうだな、と思ったら、『もう一回お願いします』と言って、同じ動きをするかどうか確かめるんですね」
「うーん、そうなんだろうなあ」
「そうして、福井さんが同じ動きをやったら、井川さんはその動きをいかした芝居を考えるってわけですね」
 「なるほどね。そういうことか……」と私は思わずつぶやいてしまった。北岡さんが指摘したことは、演出のときに私があまり意識せずにやっていたことだったのだ。
 要するに、私が役者に求めていたことは、登場人物の内面を説明するような芝居をしないでほしいということだった。役者には登場人物間の関係の変化を意識して演じてもらいたい。そのために、ある役者に芝居に関する助言をするときには、相手役の芝居を変えるという間接的というか実にまわりくどい方法で助言していたのだ。


 北岡さんは「リハーサル篇」をどうやって編集したらいいかをつかみかけているみたいだった。そこで私は自宅で素材映像を見直し、新たに気づいたことをメールに書いた。
(参考までに言っておくと、私は課題シナリオの舞台を学校の教室に設定し、ちひろがメールで良江を呼び出したというふうにしている)

北岡さんへ


演出実習の素材、見直してみた。
で、たぶん、ここが重要だったんだろうなというところがいくつかあったので、以下に記しておきます。


1.良江役の今岡さんが「ごめん、遅れた」と言いながら、教室に入ってくる芝居を何度かくりかえしているうち、
「十分遅刻にしていいですか?」と提案してくるところ。
今岡さんの芝居が変わる徴候だな、と思ったのをおぼえている。
で、今岡さんの芝居が変わる方に力を入れて、
今岡さんの芝居を通して、福井さんの芝居が変わればいいと思ったんじゃないかな。


2.良江役の今岡さんが「男、紹介しろってこと?」と言って、ちひろ役の福井さんの隣の席に移動すると、福井さんがちょっとイスをずらして離れようとするところ。
福井さんが最初に決めた席付近でずっと芝居が続くのはつまらない。
どこかで福井さんが移動した方がいいと思っていたんだけど、
福井さんがイスをずらすのを見て、あっ、席の移動は、このあとでできると思ったんだな。
だから、今岡さんが「じゃあ、何なのよ」と言うときに福井さんにもっと接近させようとしたんだと思う。
しきりに今岡さんと福井さんが、近いよね、近いよね、と言っているけれど、
そういう違和感がうまく席の移動につながればいいなと思っていたのであった。


3.福井さんが机の上にのっかって後ろの席に移動したあと、今岡さんが思わず笑うところ。
今岡さんの笑いを見て、福井さんの移動はユーモラスであるといいなと思ったんだと思う。
もし本番の撮影をやるのなら、
福井さんの移動を見て今岡さんがつい笑ってしまうという芝居を撮らないといけないなと思ったのを思い出した。


そういえば、授業前に考えていたのは、
福井さんはネズミとかリスとか小動物ぽいただずまいだな、ということで、
そういう小動物ぽさがうまく使えないかなと思っていたのだ。
机の上をどんどん歩いてもらうようにしたのは、
小動物が追いつめられて逃げる感じを狙っていると思う。


4.今岡さんが「ドアを閉められると恐い」と言うところ。
重要なことを話すときには、ドアを閉めるだろうと思って、福井さんにはドアを閉めてもらったんだけど、
それを恐いと今岡さんが感じるとは思わなかった。
で、恐いという感じは面白いな、それを活かせないかなと思ったんだと思う。
電気を消したり、ゾンビみたいに歩いて今岡さんに近づいて、と福井さんに言っているのは、
今岡さんの反応を参考に考えた芝居のはず。


ざっと見て気になった場面はこの四つかな。
この四つは芝居を考えるヒントになったところだと思う。


井川


 北岡さんは私のメールなども参考にして45分の授業のダイジェストを編集してくれた。となると、次は私が作業をする番である。
 北岡さんがまとめたものを見てまず思ったのは、自分の演出過程が大きく二つに分割できるということだった。前半はリハーサルの37回目までで(課題シナリオで言うと、良江が「じゃあ、何なのよ」と言うところまで)、このパートでは、良江役の今岡さんの芝居を変えることで、間接的にちひろ役の福井さんに今いる場所から動くように求めているみたいだった。一方、51回連続で行われる後半のリハーサルでは、逆に福井さんの芝居を変えることで、今岡さんに福井さんを追いかけるように求めているみたいだった。さらに、前半については、9回目のリハーサルまでは、ドラマが始まる前の二人がそれぞれどうであったかを探る段階のように思えた。
 また、画面に映る自分を見ていると、五つくらいの課題を設定して、それらを解決するためにあれこれ試行錯誤を行っているように見えた。
 そこで私は「リハーサル篇」の構成を次のように考えた。


 1.芝居の準備


 2.良江の芝居がちひろを動かす
  課題1:ちひろにどう接近するか
  課題2:ちひろをどう動かすか


 3.ちひろの芝居が良江を動かす
  課題1:良江を動かす芝居は何か
  課題2:良江を再び動かす芝居は何か
  課題3:良江にどう接触するか


 ところで、「撮影現場・段取り篇」でも「ホン読み篇」でも問題となった部分、つまり、

良江「そっちに分かんないって言われたら、こっちだってどうしようもないよ。何もしてやれないよ」
ちひろ「ねえ、どうしてそんなにわたしのこと心配してくれるの?」


という部分は、二年前の私の演出実習ではどうなっているのだろうか。
 リハーサルをくりかえすうちに見えてきた芝居の流れは次のようになっている。


ちひろは「でも、男になりたいわけじゃない。分かんないよ」と言って、教室の電灯を消す。この消灯という行為は、良江に向かって二つのメッセージを同時に発しているように見える。一つは「私をあなたの前から消し去ってしまいたい」というもの。そして、もう一つは「私を放っておかないで」というもの。
・良江は灯りをつけ、カーテンの後ろに隠れているちひろを発見する。だが、ちひろは黙ってしゃがみこんだままである。このとき、ちひろの身体は「そばに来ないで」というメッセージを発している。しかし、これは良江を学校の教室に呼び出したメールと矛盾するメッセージである。
・良江は「そっちに分かんないって言われたら、こっちだってどうしようもないよ」と言いながら、ちひろが座っていたイスをもとの位置に戻す。それから、ちひろから離れたところにあるイスに座ると、「何もしてやれないよ」とつぶやく。


 この芝居の中で、ちひろは他のメッセージと矛盾する内容のメッセージを二度発しているが、重要なのは二度目のメッセージを受け取ったときの良江の反応だろう。良江は矛盾にとまどい、「そっちに分かんないって言われたら、こっちだってどうしようもないよ」と突き放すようなことを言ってしまう。だが、その一方で、ちひろの身体が発しているメッセージよりも、メールの方が彼女の本心を伝えていると考え、教室にとどまることにする。つまり、良江もまた、ちひろのように矛盾したメッセージを発するようになっているのだが、この無意識の模倣がちひろを心配していることの証となっているのである。
 しかし、こう書いてしまうと、二年前の私がちひろ役の福井さんに矛盾したメッセージを発する芝居をしてもらおうと意識的に考えたように見えるかもしれない。が、それは実際とはちょっとちがう。
 二年前の私はちひろ役の福井さんに「高校のとき、つきあってた子に彼氏ができた」と言う前にドアを閉めるように求めた。そうして何度かリハーサルをくりかえしていると、良江役の今岡さんの芝居が変わってきたのだった。「ねえ、あんた、一生、宝塚やってるつもり?」と言いながら立ち上がり、カバンを置いたところに戻るという芝居をするようになったのだ。私には今岡さんがなぜそういう芝居をするのかがすぐには分からなかったが、その芝居が間違っているようにも見えなかった(ドアを閉められたときに感じた恐さをごまかすためだったということには、あとになって気づいた)。いや、それどころか、このあとの展開に活かせそうな何かがあると感じられたのだ。そこで私は遠くに離れてしまった良江を呼び戻す芝居をちひろにさせてみようと思い、消灯を思いついたのだった。
 要するに、二年前の私はすべてを意識的に考えていたわけではなかった。今岡さんの芝居が使えるかもしれないという勘に衝き動かされるようにして演出していた、と言った方がいいくらいかもしれない。
 おそらく、演出を学ぶ授業の難しさはこの点にあると思う。講師は無意識に助けてもらいながら演出を行うために、自分がしたことについてその場で正しく解説することができない。より正確な解説を行うには、時間をおいて演出をふりかえってみることと、講師の無意識を指摘するような質問をするインタビュアーの存在が必要不可欠なのだ。


 冨永くんのインタビューは、「〜したらどうなりますか?」という口癖についての質問から始まり、私の無意識にどんどんふみこんでくるものだった。だが、私は冨永くんの質問に分かりやすく丁寧に答えていただろうか。あとで15分に編集することを考えて、短く素っ気ない答え方になってしまったような気がしてならない。
 中でも気になっているのは、ちひろ役の福井さんが唐突に机の上を歩く芝居についてだ。冨永くんは、ああいう芝居はちひろのキャラクターから大きくはずれそうな心配があるのですが、と尋ねてきたのだが、私はそれに対してきちんと答えていないと思う。
 普通、「キャラクター」と言ってひとが思い浮かべるものは、第三者の目から見た普段の印象みたいなものだ。だとしたら、登場人物のキャラクターが有効に機能するのはドラマの半ばくらいまでで、関係が変化して、たとえば、登場人物が追いつめられるような状況に陥った場合には、そのキャラクターの維持は難しくなる。
 つまり、別の言い方をすれば、キャラクターには大きく分けて二つあるということなのだろう。一つは普段のキャラクターで、これはドラマが進むにつれて破綻し、使い物にならなくなってくる。そこで、関係の変化に対応した新たなキャラクターが普段のキャラクターに取って代わることになる。
 ちひろ役の福井さんがいきなり机の上を歩くのは、ちひろの普段のキャラクターが破綻してしまったことのあらわれだろう。その後、ちひろはひとの前で、ドアを叩き、スイッチを切り、というふうに身近な物にあたるキャラクターとなっていく。
 ところで、気になるのは、まわりの物にあたるという行為があらわれるのはリハーサルの後半になってからではないということだ。「芝居の準備」と名づけた最初の段階で、福井さんは良江が来るのを待つちひろを演じているときに、ペットボトルで机を叩いていたのである。ドアを叩いたり、スイッチを切ったりという芝居は、これの変奏であると言っていいだろう。
 同じようなことは良江を演じた今岡さんにも言える。今岡さんは机の上を歩いたあとのちひろに近づくときや、ちひろに「じゃあ、わたしとつきあってくれる?」と言われたときにふいに立ち止まる芝居をする。しかし、この立ち止まる芝居は「芝居の準備」の段階でも見られるものなのだ(9回目のリハーサルで、今岡さんは教室に駆けて入ってくるなり急に立ち止まっている)。
 ということは、こういうふうには言えないだろうか。「芝居の準備」の段階は、福井さんや今岡さんにとっては、演じる役に慣れ親しみ、演技に勢いをつけるために必要なものであった。一方、演出する私にとっては、キャラクターの変化に左右されない登場人物の仕草を発見する段階であった。たぶん、そうした仕草を発見しないことには、私は演出の方向性についてきちんと考えることができなかったにちがいないのだ。
 だがそれにしても、キャラクターの変化に左右されない登場人物の仕草とは、その登場人物の存在感のことではないだろうか。と同時に、演じる役者自身の存在感のことでもないだろうか(注13)。


注13:私は以前、プロジェクトINAZUMAのパンフレットに次のようなことを書いたことがある。

「私たちは役者の演技の中に演じられる役と役者自身の存在感とを同時に見てしまう。そして、この二つのものの間で視線がゆれ動いてしまうことが劇映画の魅力の基礎になっていると言うことができる。問題は、役者が役そのものになりきったときに、役者の存在感が見えにくくなってしまう事態が起こりうるということである」
「私たちは役者の身体や芝居との対話を通して演出プランを何度も破棄・更新する。しかし、役者の存在感をどう表現するかという演出上の危機に直面したときこそがもっとも重要な飛躍のときである。そのとき、私たちはドラマの核心をどう表現したらいいかという問題も同時に解決する可能性を引き寄せているのである」
(井川耕一郎『プロジェクトINAZUMAは演出について考える』)