『演出実習2007』製作ノート(7)(井川耕一郎)

9.補足(いくつかの注意)

・『演出実習2007』と『演出実習2008』を見て、同じシナリオでも監督がちがうと、こうも芝居がちがってくるものなのか、と思うひとがいるかもしれない。だが、その感想には間違いが含まれている。
・第一の間違いは、芝居を監督の表現としてだけ見てしまうことである。芝居は監督の表現であると同時に、役者の表現でもある。同じ監督でも役者が別のひとであれば、芝居が変わる可能性が出てくる。
・第二の間違いは、最終的にできあがった芝居がちがうことから、演出は監督の思いつきで自由にやってよいのだと思いこんでしまうことである。
・『演出実習2008』をつくった小出豊くんは製作ノートの中で「演出の順序は問題の発見、そして対処だ」と書いているが、これは重要な指摘である。ただし、小出くんの指摘には、あとちょっとだけ補足説明をつけくわえておきたい。役者や場所などの条件がちがえば、対処方法にちがいが出てくるのは当然だが、『演出実習2007』と『演出実習2008』で私たちが示したかったことは、問題については、どの講師も同じような問題に直面しているということだ。
・具体例を一つあげると、ちひろの「ねえ、どうしてそんなにわたしのこと心配してくれるの?」というセリフを正当化するような芝居は何か?が、それにあたるだろう。演出は監督の思いつきで自由にやっていいものとは言えないのである。


・「演技」と言うと、多くのひとは登場人物の感情を表現することをまずイメージするのではないだろうか。けれども、登場人物の感情表現と同じくらい、いや、それ以上に重要なことは、登場人物の存在感を表現することである。
・「撮影現場・段取り篇」で、万田さんは良江役の生徒に、カーテンを閉めること、布巾をしぼること、ちゃぶ台を拭くことなどを正確に行うように求めていた。これは、日常生活を送る身体に登場人物の存在感があらわれやすいからである。
・「ホン読み篇」で、西山さんは良江役の秦さんの口調、ちひろ役の原さんのたたずまいなどを芝居に取り込もうとしていた。この西山さんの試みは、役者の身体が無意識のうちに表現しているもの、つまり、役者の存在感を、登場人物の存在感の表現に活かそうとする試みだと言うことができるだろう。渡辺護の名言に、「スクリーンに演技力など映らない。スクリーンに映るものは、役者の存在感であり、人柄だ」というのがあるが、この言葉は西山洋市の試みと重なり合う部分が多いように思う。
・登場人物の存在感を表現することの重要性を忘れてしまうと、感情表現に対する演出もおかしくなってくる。観客に向かって感情を説明するような芝居を正しい感情表現だと思いこんでしまう危険性が出てくるのだ。
・また、感情を説明する芝居が正しいと思ってしまうと、役者間で芝居の交流ができているかどうかの判断ができなくなってしまう。感情は登場人物間の対話の中から生じるものだということを忘れないように注意してほしい。


・万田さんが演出実習で撮影まで行ったのはなぜだろうか。また、西山さんがインタビューの中で、撮影のときにホン読みやリハーサルでやったこととちがうものが出てこないとつまらない、と言ったのはなぜだろうか。それは、演出の最終的な目標が撮影のときに一番いい芝居を撮ることだからだ。
・撮影のときに一番いい芝居を撮るためには、役者の生理も考慮しなくてはいけない。以下に引用する二人の監督の言葉は大いに参考になるだろう。

 ぼくは、リハーサルを完全にやってはいけないというのが方針なんで。世の中の監督は馬鹿が多いから、完全なものを見てから本番をやる人がいるんですね。完全なものを見たら、その次は、完全なものよりは落ちるに決まってるんですよ。だからぼくは、次に完全になるだろうというときを見計らって、「本番」というわけね。
大島渚大島渚1960』青土社


 一〇時頃、うーんイイ線いってるな、これもキープしておこうと口走りますよね。そして夜一二時を過ぎますと、スタッフの中にありありとさっきのキープをOKにした方がいいんじゃないかみたいなことになってくるわけです。それをもう一遍乗り越えるとすぐに不安がこみあげてくるんです。さっきの一〇時の段階よりいいカットにそれがなるのかどうか、何の保証もないわけですから。そこであきらめて、はい、やめましょうなんて言ったら、俳優さんに対する侮辱だし、こっちの見識も問われるわけです。それでそういう時に何故か不思議に三時、四時になると、いい芝居が出来上がって、それはみんなスタッフも共演者も納得なんですよ。それでワーッと拍手が起きる。
深作欣二日本映画監督協会新人賞シンポジウム」『映画芸術』95年夏・第356号)


・おそらく、いい芝居を撮るには、1テイクで決めるか、さもなければ100テイク以上やるかのいずれかなのだろう。10テイク、20テイクやってねばった気になるのが一番まずいことなのかもしれない。


・『演出実習2007』と『演出実習2008』を見て、これで演出のやり方が分かった、と思うひとが出てくるかもしれない。だが、その考えは間違いである。前にも書いたように、『演出実習2007』と『演出実習2008』は、演出マニュアルではない。演出とはどういう作業なのかを探究する試みなのだ。
・また、『演出実習2007』と『演出実習2008』を見て、演出について自分も同じことを考えていたのだ、と思うひとが出てくるかもしれないが、そういうひとも注意した方がいいだろう。あなたは単にビデオを見て考えた気になっているだけで、まだ自力では何ひとつ考えていないかもしれないのだ。
・『演出実習2007』と『演出実習2008』は映画美学校事務局が保管していて、映画美学校関係者(在校生及び修了生)ならば、いつでも見ることができる。また、素材となった記録映像も映画美学校関係者なら、見ることができる(ただし校内での閲覧となる)。演出について考えてみたいというひとは、これらの映像も活用するといいだろう。


10.最後に

 私たちは『演出実習2007』を三度つくった。
 一度目は、素材映像を分節化し、45分にまとめるという形で。
 二度目は、インタビューするという形で。
 三度目は、製作ノートを書くという形で。
 だが、演出については分からないことがまだまだある。現時点で私たちに言えるのは、「演出とは、監督の頭の中にあるイメージの再現ではない」ということくらいだ。
 私たちは探究を続けなくてはいけないだろう。ただし、これから先は、実作という形での探究になるはずである。


追記:あるブログに書かれていた感想を引用しておきたい。
『演出実習2007』、『演出実習2008』のねらいをきちんと読み取ったうえで紹介してくれた文章だと思う。
どうもありがとう。

午後、美学校へ。美学校映画祭、前夜祭。「演出実習2007」「演出実習2008」「演出実習2009」。生徒と同じシナリオを渡された講師たちが、実際にじぶんならどうするかを実践していく授業の記録と、それに関する後日インタビュー。各講師たちの、どう人物を動かしていくか、どう発声をさせていくのか、どう現場でカット割りまでを考えるのか。それを分節化してひとつひとつみていく映像になっている。画面で起こっていることに興味を引っ張られていると、その起こっている事柄はどういう意図を持って演出する講師たちに仕組まれていたのか、それはこうではなかったかと字幕とインタビューによって(あと当日配布されたA4・22枚もの制作ノートという資料!によって)補足されていく。見ながら気をつけて考えないといけないのが、制作ノートにもあるように、ここで演出している講師たちは、本人たちは自分たちの演出意図にかならずしも自覚的ではないということで、最初から頭の中にあったゴールを目指して役者をコントロールしているというのではないということだ。分節化して振り返ってみるとシステマティックに最初から明確な着地点を目指して進んでいるようにみえるが、それはシナリオを役者に演じてもらっているうちに変わっていったもので、決まったものに向かうために行われていたのではない。(いや変わっていくというとどんどん別物になるような気がするので、研がれていく、というべきか)最初から考えていたことと、現場で考えられたこと、役者が動いてみた印象、それによるシナリオの読み直し、さらに役者の芝居をみて、と、どんどん思考が重ねられて研がれていく。その段階でこっちだろうと判断をして着地点を見つけていく。もしくはさらに探していく。「2007」「2008」で試行錯誤していた各講師のやり口と、シナリオは違うものの各講師が実際に演出した「演出実習2009」での作品群まで見比べるととても面白い。


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