『赤猫』をふりかえって(井川耕一郎)


大工原正樹の『赤猫』は、『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』の併映作品として、10月4日(火)に上映されます(オーディトリウム渋谷、21時10分〜)。



(『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』について書いたときと同じように、とりとめない雑感になってしまうかもしれないが、『赤猫』についても書いておくことにする)


『赤猫』のシナリオを大工原さんにメールで送り、あー、終わった、終わった、と清々した気分で缶ビールを何本も飲んだのだ。
しかし、一日たち、二日たつうち、だんだん心配になってきた。
あの分量のシナリオだと、いつもなら30シーンくらいでまとめている。ところが、『赤猫』は60シーン以上だ。それに画面外からの声と回想をたんと使っている。あんな変てこなシナリオを渡されて、大工原さんたちは困っているのではないか。


というわけで、スタッフの映画美学校生に準備の進み具合を尋ねてみた。主人公の千里役をどうするかで、大工原さんはもう何人もの女優さんと会っています、とのことだった。
私には、あて書きとか、イメージキャストとかいうやつがよく分からない。だから、どうぞご自由にやって下さい、と監督をやるひとには言ってきた。しかし、今回ばかりは、それでは無責任なように思えてきたのだ。


映画美学校で撮影の準備をしている大工原さんに会ってみた。
女優の面接を記録したビデオがあるんですけど、見ますか?と言うので、見せてもらった。ちょっとでも、大工原さんの助けになればと思って、教室で真剣に食い入るように見た。
五、六人分の面接を見たあと、大工原さんがビデオを止めて、どうですか?と尋ねてきた。
三番目の女優がよかった、質問を聞いているときのたたずまいがいいですね、と答えると、大工原さんは言った。ああ、そうですか。やっぱり、井川さんもそう思いますか。森田亜紀さんってひとなんですが、いいですよね。いいんだよなあ、彼女は……。
私は大工原さんの顔を見てあきれてしまった。バカヤロー、ひとを試しやがって。いや、要らぬ心配をしたおれの方がもっとバカか。大工原さんはとうに主演女優を見つけていたのである。


四年前にシネマアートン下北沢で『赤猫』を上映したときに、大工原さんはパンフレットにこう書いている。


「森田亜紀は、スタッフがインターネットで様々な劇団のHPを閲覧して見つけてきてくれた女優です。初めて会ったときの印象は、とにかく利口そうで感じのよさそうな人だなあと。シナリオの感想を聞いても受け答えがしっかりしているし、絶えず見せる笑顔が朗らかでたいへん魅力的だったのです。この人が千里を演じたらどうなるだろうと想像するのが楽しかった。それが何より決め手になったように思います」
(大工原正樹『「赤猫」森田亜紀について』・プロジェクトINAZUMAパンフレットより)


今、読み返してみると、「この人が千里を演じたらどうなるだろうと想像するのが楽しかった」と書いてあることにはっとさせられる。
大工原さんは続けて、主人公の千里について、「静かに狂っていく人物でありながら、語りは口調も内容も明快」、「夫の浮気を疑ったという話を夫本人に語りながら、決して感情的ではなく、まるで心がそこに無いように語る女」と書いている。
しかし、森田亜紀さんに主演を頼んだのは、大工原さんが考える千里という役にぴったりのイメージを持っていたからというわけではないだろう。もしそうなら、「この人が千里を演じたらどうなるだろう」などと思ったりはしないはずだ。
森田亜紀という女優を通して千里を探究すること、そして、千里という登場人物を通して森田亜紀の魅力を探求すること――この二つの課題がからまりあいながら、『赤猫』を監督するときの大工原さんをひっぱっていったのではないだろうか。


完成した『赤猫』を見て、アニメーション作家の新谷尚之さんは次のようなことを書いている。


「この作品で最も印象的なのは主演女優のモノローグのアップである」「女の喋るどこからがどこまでが真実なのか。もしかして全てが幻想なのか。何重にも入れ子状になったこの作品で、唯一揺るがないステージ。それがあのアップだ。どこで喋っているのか、どこを見つめて、誰に向かって喋っているのかもわからない(もちろん、夫にだが、独り言のように見えてくる)。単なる古典的手法。経済的、効率的に撮影するためのブリッジカットこそが、この映画の最深部であり、誰もがそのカットに魅入られてしまうのだ」
(新谷尚之『じっと見つめる―大工原正樹の映画について―』より
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20060527/p3


たしかにそうだと思う。シナリオでは画面外からの声として処理されている部分のいくつかが、映画では闇の中で千里がカメラに向かって語りかけるというふうになっているのだが、そのときの森田亜紀さんのアップが実に素晴らしいのだ。
大工原さん自身は、このアップを撮ったときのことをこう記している。


「最終日だったでしょうか。千里のモノローグを、声だけでなく彼女の表情も込みで撮っていこうと思い立ち、カメラをほぼ回しっぱなしにして演じてもらいました。
正面を見据えて語る彼女は、それまでに増して怖かった。カメラの横で森田亜紀の芝居を見つめながら「千里という女はこれほど狂っていたのか!」と心底驚いたことを今でも覚えています」
(大工原正樹『「赤猫」森田亜紀について』・プロジェクトINAZUMAパンフレットより)


このとき、大工原さんは「森田亜紀という女優を通して千里を探究すること」という課題に対する答をやっと見つけることができた!と思ったのではないだろうか。


『赤猫』を見直して気づいたことがある。最終日に撮ったという千里のアップが映画の中で最初に使われるとき、彼女はカメラに向かって何も語りかけていないのだ。
夫が浮気しているかもしれないことを、彼が地下室で猫とじゃれている形で表現しているシーンがあるのだが、そこでふいに千里の無言のアップが入るのである。
それは地下室へと下りてゆく階段の途中で立ち止まり、息を殺してじっと夫の様子を見つめているようで、ぞっとする。地下室のシーンは、シナリオでは千里の想像のシーンだったのだが、完成した映画では現実になりかけているのだ。


この千里の無言のアップに気づいたとたん、映画の見方が変わってくる。
彼女がカメラに向かって語りかけるアップが強く印象に残るわけについて、以前、それは目の持つ力や、声の質感によるものだと思っていた。
しかし、あらためて『赤猫』を見てみると、語りだす前や、語り終えたあとの間が、ほんのちょっとだけだが、長くつないであるのである。
あのアップが見る者を惹きつけるわけは、このほんのわずか長い無言にあるのではないか。


そういえば、私が大工原さんに女優の面接ビデオを見て口にした観想は、「質問を聞いているときのたたずまいがいいですね」だった。
私が無意識のうちに感じていたのは、森田亜紀の魅力は無言のうちにあるということだったのだろう。いや、より正確に言えば、無言から発話に移る瞬間、唇がかすかに動きだす瞬間が魅力的だということになるだろうか。
大工原さんは私とちがって、森田亜紀さんの魅力についてかなり意識的に考えていたのだと思う。だから、モノローグのアップをつなぐときに、ほんのちょっとの間を大切にしたのだ。
つまり、モノローグのアップは、「千里という登場人物を通して森田亜紀の魅力を探求すること」という課題に答えるものにもなっていたと言えるだろう。


またしても長い文章になってしまったので、あと二つだけ、ここが見所と思うところを記して終わりにしたいと思う。


これから『赤猫』を見るひとのために、はっきり具体的に書くことはしないけれども、映画の後半で千里が思いもよらないタイミングであるものを見てしまったことを夫の内村に語る場面がある。
シナリオではこの場面は、次のようになっている。


○ ダイニングキッチン
  窓の方に向かってゆっくり歩く千里。
千里「最初、わたし、それが何だか分からなかった。だって、生まれて初めて、それをじかにこの目で見たんだから……」
  千里、窓際に立つと、カーテンを握りしめる。
千里「でも、気づくのが遅かった。もっと早く気づいていれば、目を背けたのに……」
内村「……一体、何を見たの?」
  千里、ふりかえって内村に言う。


しかし、完成した映画ではセリフはそのままだが、動きがちがっている。森田亜紀さん演じる千里は、「一体、何を見たの?」という問に答えるとき、ソファーに横たわっているのだ。
これには、本当にうなってしまった。セリフの上では、彼女は見てしまったことを後悔している。だが、身体は見てしまったものをありありと思い出し、今もそれに魅了されていることを告げているのだ。
セリフと身体が同時に正反対のメッセージを発しているというのは、シナリオでもねらっていたことだった。しかし、これほどまでに鮮やかに正反対が表現されるとは思ってもいなかったのである。
それに、森田亜紀さんのソファーに横たわっている姿がなぜだかとても色っぽかったのだ。


シナリオだと、夫の内村の存在感はとても希薄だ。たぶん、シナリオを書いているときの私は、夫なんかどうでもいい、千里の姿だけがスクリーンに残ればそれでいいんだ、と思っていたのではないだろうか。
だが、完成した映画では、夫の内村が丁寧に撮られている。千里の話すことをただ黙って聞いているだけなのだが、そのたたずまいが素晴らしい。内村を演じた李鐘浩さんがさりげなくいい芝居をしている。彼の受けの芝居が森田亜紀さんを輝かせているのだ。これも見所の一つだろう。
そういえば、衣装合わせのとき、初対面の森田さんと李さんがあいさつをし、話しだしたとたん、大工原さんがちょっと離れたところに立って、黙ってじっと見つめだしたのを思い出す。あのとき、大工原さんは二人の何気ない姿の中から夫婦の雰囲気をつかみとろうとしていたのだろう。
大工原さんはデビュー作『六本木隷嬢クラブ』のときからそうだったのだが、家族的親密さを描くのがとてもうまい。あのうまさは、こういう観察の積み重ねから生まれてくるものなんだろうな、と私は思ったのだった。