小出豊くんのこと(井川耕一郎)

(以下の文章は、「CO2映画上映展 第5回 フィルム・エキシビション in OSAKA」のパンフレットに掲載されたものです)

 四年前、シネマアートン下北沢という映画館が大和屋竺特集を企画したときのこと。大和屋に関する小冊子の作成を依頼された私は、若い人たち大和屋竺論を読んでみたいと思った。そこで映画美学校の生徒に声をかけてみたところ、一人の卒業生が『荒野のダッチワイフ』論をメールで送ってきた。批評は完成度の高いものだった。だが、私がそれ以上に惹かれたのは、自分の書いた批評を否定するような口ぶりのメールの方だった。
 メールには、「間違っているかもしれないと思って、批評に書けなかったことがあるのですが」と前置きしてから、独自の見解が記してあった。それは、多くのひとが見過ごしてきた細部に注目し、そこから今までの映画の解釈をくつがえしてしまうような結論に至るものだった。私はすぐに電話をかけ、メールを『荒野のダッチワイフ』論として小冊子に掲載したい、と告げた。その卒業生が小出豊くんだった。
 小出くんは三期初等科のときに『綱渡り』という短編を撮っている。この世界に自分の居場所が見つけられない少年の、透きとおった淋しさを描いたその作品は、一人の映画作家の誕生を告げるものだった。ラストで海にたどりついた少年はどうなってしまうのだろう。もう異界へ旅立つしかないのではないか。私は小出くんの次回作に期待した。けれども、『綱渡り』のあと、彼はなかなか新作を撮ろうとしなかった。
 その沈黙の時期に何があったのか。たぶん、『荒野のダッチワイフ』論を書いたときのような迷いがあったのだろうと思う。小出くんは、『綱渡り』の世界に磨きをかけて完成度の高い作品をつくってみたいと思う一方で、表現者としてここで自足してしまっていいのか、と自分にきびしく問いかけていたのではないか。
 『綱渡り』から六年後、小出くんは『お城が見える』を撮った。それは『綱渡り』から意識的に離れようとした作品だった。だが、離れようとすればするほど、小出くんは自分がどうしようもなく自分であることを痛感したのではないか。『お城が見える』の主人公は暴力防止プログラムという名の地獄に突き落とされ、罪の再現を強いられる。小出豊は、この世界で居場所を失った者が異界に接近する物語をふたたび語りだしているのだ。
 小出くんの新作『こんなに暗い夜』について詳しいことは何も知らない。けれども、彼はきっと『お城が見える』を乗りこえようと必死になっているにちがいない。そして、その必死さが今回もまた異界を引き寄せているにちがいない、と私は見ている。


注:小出豊の『荒野のダッチワイフ』論は、このブログで読むことができます(http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20061103)。