日録1980年7月21日(渡辺護)



(このエッセイは、「日本読書新聞」1980年7月21日に掲載されたものです)


 ×月×日
 撮影最終日。言問橋から吾妻橋付近で痴漢公園のシーンだ。午後一時三〇分、体があいたのでなつかしい喫茶店に入る。すると、思い出が記憶の底からせきを切って流れ出す。まだ監督一本目の駆け出しの時だったが、俺はこの店でスタッフ全員にグレープジュースをおごったっけ。一九六五年、第一作の『あばずれ』の時だ。
 六三年、俺はテレビの映画の助監督をやっていた。ある日、パチンコ屋で、昔の仲間に出会って「やんないか――」と声をかけられたのがピンクだったというわけだ。助監督をやりながら脚本を書き、ある日、脚本を届けに会社に行き脚本の内容を説明したのが認められて監督することになった。俺は、監督の初日、不安でロケ現場の浅草に、前の晩から泊り込んで、ああでもないこうでもないと、脚本が汚れてボロボロになる程カット割をしていたが、とうとう夜が明けて旅館の障子に木の蔭がゆれるのを見て、あせったりしたものだ。
 言問橋の上が、撮影の第一現場だった。監督がストップしたら十何人のスタッフ全員がストップするという責任感で、一七日間の撮影を終えた時、六五キロの体重が六〇キロを切っていたのを思い出す。ラストカットを撮り終えるとその場に倒れ込んだ俺にみんなが駆け寄って来た。一作目から三作目までずっと浅草が舞台の映画を撮った。それは、浅草が切っても切れない俺の故郷だからだ。滝野川生まれの俺は、飛鳥山からバスに乗り、千束で降りる。小学六年の頃から、浅草にやって来ては、大都映画の時代劇、内田吐夢の小杉勇主演『人生劇場』森川信一座や清水金一(シミキン)一座軽演劇、いろんなものを、見た。ラムネを飲みながら瓢箪池の廻りを今見たばかりの映画の思いを託しながら歩いた。「強いばかりが男がじゃないといつかおしえてくれた人――」という歌も憶えた。しかし、その浅草が、六区が、あと一、二年するとツブされて大きなビルが建ちデパートになってしまうという。
 俺の故郷はドンドンなくなる。