日録1980年7月28日(渡辺護)


(このエッセイは、「日本読書新聞」1980年7月28日に掲載されたものです)


俺の映画の熱心なファンである若者たちが、今はもう劇場で上映されない古いフィルムが見たいといって来た。『少女縄化粧』や『聖処女縛り』を観て俺の名前を覚えてくれたという彼らが、俺の過去の作品が見たいというのだ。丁度、『(秘)湯の町・夜のひとで』と『おんなじ獄唄・尺八弁天』の二本を俺は一六ミリ版にして持っていたので、それを若者たちに貸してやることにした。そして若者たちは六本木のビルの六階にあるこじんまりとしたスペースでそれの上映会を催した。
映画の後、若者たちとの討論をすることになった。評論家の松田政男さんや、映画を見にやって来た日野繭子も参加してくれた。うれしかったのは、ロケ先の青森から上野に帰ってくる列車の中、雑誌でこの上映会を知りかけつけて来てくれた風間舞子だ。昔と今のピンク映画の話を若者たちとすることができた。そんな中である青年が『尺八弁天』に出ている辰巳典子のことについて質問をした。彼女は今、下北沢で“らりぱっぱ”という飲屋をやっているのだが、始めてやって来た時は一七歳、おじいちゃんとおばあちゃんを背中にしょったけなげな女の子だった。いろんな女優がいた。谷ナオミは「絶対、あたしの胸は自信があるの、恋人にだって吸わせないんだから」と言って現われた九州なまりがぬけない女の子だった。
中でも思い出すのは、『あばずれ』に主演した飛鳥公子だ。コロッケ屋の娘で一八歳でやって来て、「キミ、パンティはいつも清潔な白を用意してくれ」と言ったらスカートをめくりあげて「不潔かどうか見て下さい」とすごかった。何本か出た後、歌手になると言ってやめていった。ピンク初期のスター左京未知子や、内田高子や、新高恵子や、可能かず子、谷口朱里、みんな元気でやっているだろうか。その後はいろんな道を歩んでいるにしてもふと思い出すことがある。