『男ごろし 極悪弁天』から『おんな地獄唄 尺八弁天』へ(3)(井川耕一郎)


殺意と表裏一体の愛欲について。
これは、『極悪弁天』では英二郎がになっていた。
英二郎に抱かれた加代が「苦しい……死ぬかと思った……」と言うと、彼はこう答える。「俺は人斬り英二郎と云われた男だ……あんたを殺る時は……ドスであの世に送ってやる」


『尺八弁天』ではどうか。
殺意と表裏一体の愛欲は、二人の男がになっている――つまり、蝮の銀次とセイガク。
ここが『尺八弁天』の興味深いところだろう。
大和屋竺には、蝮の銀次を弁天の加代の敵、セイガクを味方というふうにはっきり分けてドラマをつくることもできたろう。
となると、殺意と表裏一体の愛欲は、殺意と愛欲の二つに分割した方がいいはずだ(切り離したとたん、愛欲は恋愛と呼んだ方がいいものに変わるだろうが……)。
そうして、前者を蝮の銀次に、後者をセイガクに割り当てればいいわけである。


ところが、大和屋はそうしなかった。
セイガクは弁天の加代と二度交わるけれども、二度とも意識を失った彼女と交わろうとしている(さすがに、二度目は、交わる直前に加代が意識を取り戻すのだが)。
加代の合意を求めようとしない点で、セイガクは蝮の銀次と同じだと言える(二人は分身関係にある)。二人とも、暴力にとり憑かれた人間で、女性と性的関係をもつときには、犯す形を選んでしまうのである。


では、セイガクと蝮の銀次を区別するものは何か?
それは、刺青をどう見ているかということだろう。
蝮の銀次は、加代の背中の刺青を剥いで、彼女を殺した証拠としようとする。つまり、銀次にとって、刺青は誰であるかを示す目印にすぎない。
けれども、セイガクはちがう。シーン33で、彼は加代に自分の背中の吉祥天の刺青を見せながら、こう言う。
「お前を抱こうなんてさいしょは思っちゃなかったんだが、見たがさいご、ずい分欲深な弁天さんじゃねえか、抱かなきゃ地獄に落とすぞとこう仰言るんだ」
「こう血が騒ぐのも、俺のせいじゃねえ。お前のせいでもねえ。なあ分ったろう?」
「俺あ信じる。こいつあ仏の慈悲って奴だ」
「ああ、殺せ。構うこたあねえ、何をやっても背中にしょった吉祥天がいる限り地獄へ堕ちるこたねえのだ――とまあ、俺は信じる」


セイガクにとって、刺青は単なる目印ではない。
刺青は、人間を超えるような何ものか、人間を導くような何ものかがいることを告げるもの――言い換えれば、超越的な存在の徴候なのだ。
(多くのヤクザ映画で、刺青はヤクザであることを示す目印でしかないことを考えると、セイガクが言っていることはヤクザ映画の枠からはみだすものとなっている)
おそらく、セイガクもまた、暴力にとり憑かれる一方で、そんな自分を乗り超えたいとひそかに願っているのではないか。
そして、弁天の加代はセイガクの内に自分と同じ願いがあることを感じ取った。
だから、交わるときに「やっと会えたんだわ!」とつぶやくことになるのだろう。


次に、変装について。
『極悪弁天』で、加代は賭場に行くとき、尼僧に変装していた。
『尺八弁天』ではどうか。大和屋はシーン30でセイガクについてこう書いている。
「マントに学帽、テキヤで云うところのセイガク――多くはインチキ眼薬を売る――が立っている」


だがそれにしても、セイガクとは何者なのだろう。
加代と交わるシーン33で、セイガクは流れ者のヤクザとしてふるまっている。
しかし、シーン48では、刑事をやめて紡績工場の社長となった本多からの依頼を受けている。
「私の工場にさいきん不穏な動きがめだってきておるので、その背後関係を洗って欲しいのだ。出来ることなら、めぼしい人物を突きとめて消して貰いたい」
どうやら、セイガクは本多に雇われているらしい。
しかも、「危険分子の動きは大体察知しております」と答えているのを見ると、ただのヤクザではなさそうである。


本多の「弁天というのは、本当は何者かね。無政府主義者かね」という問いかけに、セイガクは「かも知れねえ」と言って笑いだす。
さらにシナリオを読んでいくと、セイガクは「貧民に根をおろした諜報機関」について語りだし、いきなりこんなことを言う。
「本多の旦那。そういう犬みてえな野郎がいたんだよ。その諜報何とやらのな」「俺あそいつをぶち殺してやったんだ。そして身代りをやったのさ。ずい分昔の話だが」


セイガクは元アナキストだったのだろうか。
彼は諜報機関に潜りこみ、テロの機会をずっと待っていたのだろうか。
シナリオはセイガクの真の姿について何も語らない。
本多の「き、き貴様……誰だ?」という問を、セイガクは「俺? 俺あ俺だ。流れ者の俺だ。人殺しの俺、悪道の俺……」と言ってはぐらかすばかりだ。
セイガクについては、変装に変装を重ねる正体不明の人物ということくらいしか分からないのである。
(だが、セイガクにとって、正体などどうでもいいのだろう。彼もまた弁天の加代と同じく、暴力にとり憑かれた自分を乗り超えたいと願う者なのだから)


一体、大和屋竺はセイガクのような登場人物をどのようにして思いついたのだろう?
『尺八弁天』の前年(69年)には、吉田喜重の『エロス+虐殺』があったし、中島貞夫の『日本暗殺秘録』があった(ちなみに、『日本暗殺秘録』は未見。笠原和夫のシナリオしか読んでいない)。
大和屋はこれらの映画に触発されるようにして、アナキストくずれのヤクザを思いついたのだろうか。


いや、もっと身近なところから大和屋は影響を受けていたのかもしれない。
というのも、鈴木清順が1972年に次のようなことを語っているからだ。
「むかし私が未だ本来の仕事をしていた頃、やくざやギャングのねたに尽きて、世の無頼派を探しているうちに見つけたのがアナキストからテロリストに変わっていったギロチン社の連中だった」(『夢と祈祷師』の「九月は革命の月」)
ひょっとしたら、セイガクは、具流八郎が果たせなかった夢の断片だったのではないだろうか。