旦雄二『助監督』について(井川耕一郎)


(以下の文章は、ツイッターhttps://twitter.com/wmd1931)に書いたものの再録です)


1 (2013年2月19日)


第11回城戸賞入選作・旦雄二(@yujidan)『助監督』(「キネマ旬報」1986年1月下旬号)を読む。旦さんがピンク映画の助監督だった頃を題材にして書いたシナリオで、これを読むと、青春がどんなルールで進むゲームなのかがよく分かる。


ルールその1:徒党を組め。主人公の五郎は飲み屋で「何も、監督にしてくれ、とは言ってない、助監督にしてくれ、って言ってるだけじゃないか、日本映画は助監督を募集しろ」と大声でどなっているところを、ピンク映画の助監督・木村に拾われる。


移動中の五郎と木村の会話。木村「(独り言のように)助監督は飯を食えない……死ぬほど腹が減る……でも、すぐに慣れる……」「監督になりたいのか?」 五郎「勿論! そうでしょ、木村さんだって」 木村「やっぱ、なりたいよな、監督に。この商売、監督が大将だからな」


ルールその2:軽蔑する対象を作れ。これは仲間と夢を共有し、絆を強めるための手段だろう。木村は五郎に先輩助監督の梅本(栗原幸治がモデルだと思う)についてこう言う。「あの人は一生助監督だよ」「いい人が監督になれるってもんでもないんだよね、この世の中は、残念ながら」


五郎も半ば無意識のうちに軽蔑の対象を作ってしまう。彼は監督の早川(本木壮二郎がモデル)に呼び止められる。「(笑顔のまま)君は僕を馬鹿にしているね」「でもね、いいかい……これだけは言える……君が軽蔑する、こんなアル中ピンク監督にだって、成るのは大変なことなんだ……判る?」


ルールその3:身近なところに羨望の対象を作れ。これは必ずしも必要不可欠なルールではないかもしれないけれど、五郎と木村は深町に師事し、彼のために一生懸命働く。女優だったエリは、深町のお気に入りの女優・愛と木村の関係についてこんなことを言う。


エリ「木村君はそう思ってたの、愛ちゃんは監督のものだって。だから、愛ちゃんに憧れて、愛ちゃんを欲しがって……(五郎に)ねえ、そういう所ってない、助監督って。監督の物なら何でも欲しがる、みたいな……」。つまり、羨望は軽蔑の裏返しということか。


ルールその4:仲間と競争しろ。木村は深町が自分と五郎に向かって「いいロケセットを見つけた者がチーフだ、これからは」と言いだしたことに納得できない。興味深いのは、木村はロケセット探しを放棄するが、しかし、五郎との競争をやめないことだ。


木村はスナックで五郎に言う。「俺は……お前と競争しようとは思わない……理由は……お前が友だちだから、というのがひとつ……もうひとつは……俺はお前なんかめじゃないと思ってるからだ」。また、別の日にはシナリオを書いていることを五郎に告げる。


木村「大久保はどんな映画を撮りたいんだ?」 五郎「うーん……なんでも撮りたいなあ」 木村「なんでも撮りたい、ってのは、何を撮ればいいのか判らない、って事だぜ」「……俺は決めてるぞ」 五郎「どんなの」 木村「(皮肉に)そんなこと教えるもんか、秘密さ」


軽蔑と羨望と競争がくりかえされる中、五郎と木村は他人のちょっとした言動に敏感になり、ふりまわされる。そしてついに木村は助監督をやめてもともと自分がいた世界に戻ってしまう(木村の元チンピラという設定は、若い頃の若松孝二がヒントになっているのだろうか)。


木村が去ったあとも、五郎はピンク映画界に残る。けれども、五年たっても彼は助監督のままだ。深町「いいか、大久保、間違っても“深町龍二が俺を監督にしてくれるかも知れない”なんて思うなよ。俺はお前を監督にしたりしない。商売がたきを作り出しても何の得にもならないんだからな」


そしてさらに三年。その間にかつて軽蔑していた早川も梅村も亡くなってしまう。さらに仲間だった木村のその後を知った五郎は、自分の決意を深町に告げる。五郎「監督、辞めさせて下さい」「監督になります」「道は自分で見出します」


深町「判った。……何かあったら……いや、何があっても戻ってくるなよ……」。ここで最後のルールが出てくる。ルールその5:このゲームのバカバカしさに気づき、訣別すること。旦雄二『助監督』は、青春を真正面からきちんと描ききっているところが素晴らしいと思う。


それにしても、旦雄二『助監督』の中で、最大の悪人は監督の深町だろう。青春がどんなゲームなのかをよく知っている彼は、助監督たちがたえず競争をするように誘導する。たちが悪いのは、この男、権力を握ってひとを操ることに喜びを感じるタイプではないということだ。


深町の頭の中にあるのは、「面白い映画が撮りたい」だけなのである。そのためだけに、彼は助監督たちに心身ともに消耗するような競争をさせているのだ。深町「(五郎に)俺を感動させろ、って言うんだよ。俺一人感動させる事もできなくて、大勢の人間を感動させる映画が作れる、と思うか?」


深町のモデルになった監督は複数いると思うのですが、おそらく、渡辺護もその一人でしょう。そういえば、渡辺さんはこんなことを話してました。


渡辺護「おれが用意しとけよって言った警察手帳、(助監督の)原一男が持ってきたんだよ。これがひどくてさ、バカヤロー、お前、こんなもんで撮れるか!って怒ったわけだよ。そうしたら、旦(雄二)が、あ、それ、私がやりますからってさ、ささっと作ってきたんだよ。
その警察手帳がよくできているんだよ。で、原(一男)に見せて、こういうのを持ってこいよ、って言ったの、おぼえてるよ。旦(雄二)は美大出だからさ、器用なんだよな」


渡辺護さんが懐かしそうに話しているのを見て思ったものです――うーん、やっぱり、このひとが悪人・深町のモデルだ。それにしても、自分が悪人だって自覚がここまで欠如してるのはすごい。にこにこ笑いながら、若者たちを追いつめ、傷つけた話をしてるよ……。


2 (2013年2月21日)


日本経済新聞(1月17日)に載った吉田喜重「同時代を模索した映画人 大島渚を悼む」。最初に読んだときには、ずいぶん素っ気ない追悼文だなあ、と思ったのですが、旦雄二(@yujidan)さんの『助監督』(「キネマ旬報」1986年1月下旬号)と並べて読むと、いろいろ考えさせられます。


吉田喜重「私たちが急速に親しくなったのは、共通したひとつの認識があったからだろう」「それはいま生きている現実、いま身を置いている映画界を批判的に見るしか、私たちの存在理由がない。そんな思いに駆られていたのである」


旦雄二『助監督』の五郎と木村のように、松竹に入ったばかりの吉田喜重大島渚も徒党を組み、先行するものを否定したいという感情にとらわれていたのだなあ、と(否定したいという気持ちは吉田喜重大島渚の方がはるかに強いのですが)。


吉田喜重「彼と出会った翌年の春、大島は大庭秀雄監督の助監督として京都に旅立ち」「別れる折に「映画はメロドラマだ。もっとも観客を集めるメロドラマこそ、映画の力だ」と、大島が語ったことが思い出される」


先行するものを否定したいと思う一方で、それが持つ力に惹かれてしまうあたり、旦雄二『助監督』と通じるものがあるような気がします。吉田喜重はどうだったのだろう? 木下恵介についてシナリオの口述筆記をやったという話を以前読んだことがあるのですが。


吉田喜重「「社会を動かすのは政治だ。政治を動かすのは権力だ」と、大島はそのように語ってもいた。思想、文学を学んだ私には、こうした権力志向とは無縁に生きることを考えていただけに、距離を置いて彼を見るようになったのは言うまでもない」


こういう違いの意識は『助監督』にも出てきます。木村「ピンクの助監督って、二通りあるんだ。あんたみたいに映画好きで助監督やってんのと……水商売が好きで助監督やってんのと……」「俺もどっちかって言えば、“水商売が好きで”のタイプの方だもんな……もともとがチンピラだからさ」


今どきだと、違いの意識は「まあ、違いはあるけれど、お互いがんばろうよ」という態度と結びつくのかもしれない。けれども、旦雄二『助監督』では、違いの意識は競争の芽になってしまう。木村は五郎に言うわけですね。「お前なんかめじゃないよ」と。では、吉田喜重は?


吉田喜重「私たちはおたがいに執筆したものを読み、いかに私たちの考えていることが異なっているか、それを思い知らされたのも事実だった。おそらく両方が相手を傷つけることを嫌ったからだろうか、次第に疎遠になってゆくのである」


仲間と飲んでいるときに、「お前なんかめじゃないよ」なんて言うのはみっともない。吉田喜重はそう考えたのでしょう(おそらく大島渚も)。吉田・大島は傷つけあう競争になるのを何とか避けた。けれども、仲間に対する攻撃的な感情を本当に消し去ることができたのかどうか……。


吉田喜重「松竹はこれ(松竹ヌーベルバーグ)がもっとも有効な宣伝フレーズだとして、私の希望を聞き入れなかった。従っていまでも「松竹ヌーベルバーグは虚妄」、私はそう言うしかない」


最初に読んだとき、吉田喜重の「松竹ヌーベルバーグは虚妄」は、「青春はそろそろ終わりにしたい」というふうに聞こえたのですが、旦雄二『助監督』を読んだあとだと、大島渚に向かって「お前なんかめじゃないよ」と言っているようにも聞こえるわけです。


気になるのは、吉田喜重が「松竹ヌーベルバーグは虚妄」をカッコに入れて、そのあと、「私はそう言うしかない」と書いていることです。今でも「虚妄だよ」と言いたい自分がいるのを認めたうえで、「そう言うしかない」と書くことでそんな自分を何とか突き放そうとしているように読める。


一見素っ気ない感じがするけれども、若い頃に大島渚に対して抱いた攻撃的な感情がよみがえりそうになるのを抑えようとすると、こんな追悼文になるのではないか。「限りない哀惜の念を抱いていると言うほかはない」は、ああ、きちんと喧嘩すればよかったよ、という嘆きにも聞こえる。


……いや、すみません。とりとめない空想みたいなことをだらだら書いてしまいました。でも、吉田喜重の追悼文は、私の青春は何よりも大島渚との関係の中にあった、と言っているように思うのですが。