渡辺あい『電撃』と冨永圭祐『乱心』についての往復書簡・第2回(清水かえで+井川耕一郎)


<清水かえで→井川耕一郎:『乱心』のシナリオを読んで>


『乱心』のシナリオ、送っていただき、ありがとうございます。
面白かったです。
どんな役者さんがどんなふうに演じているんだろう、どんなところで撮影しているんだろうって、
冨永さんの映画が見たくなりました。


先生のメールを読んだときには、
清音と十郎のお父さんは、盛太や十郎のお母さんに比べると、
ちょっと鈍感なひとなのかなぁと思ってました。
でも、シナリオを読んでみたら、ちがいました。
十郎のお母さんがひよりと耶子をかさねあわせて、いやな予感がするのよと言うと、
お父さんはこう言います。
「嫉妬してるんじゃないか。息子とられたような気持ちになって」
こんなふうに言われたら、「馬鹿言わないで」と言いかえすに決まってます。
でも、内心、気にしつづけると思うのです。
だから、お父さんはお母さんの気持ちをあおって、何かが起きるように仕向けている感じがしました。
感じだけですけど。


何かが起きるように仕向けている感じは、清音の方がもっとします。
清音は盛太の「あれ、耶子ちゃんか」を聞いて、
「盛太・耶子・十郎」という三角関係が昔あったと想像したのでしょう。
それから、「盛太・耶子・十郎」が、「盛太・ひより・十郎」に変わってしまうかもしれないと、不安になったのだと思います。
林の中で、清音は子どものころのことを話して、
「あたし、十郎君が好きだったのよ」と言いますが、
これって、「私は十郎をあきらめたのだから、あなたも盛太に近づかないで」と言うことですよね?
次の日、清音は盛太の前から姿を消しますが、
盛太の気持ちを自分に向けたくてやったことだと思います。
(でも、盛太は清音を探しているとちゅうで、ひよりと出会ってしまうのですが)


清音のやっていることは、おかしいですよね。
だって、「盛太・耶子・十郎」という三角関係が、「盛太・ひより・十郎」にかならず変わっていくとはかぎらないのですから。
結局、清音は頭の中でつくったお話を現実にしようと動いているみたいに見えます。


『乱心』には、二つのタイプのひとがいると思いました。
お母さんの霞や盛太みたいに、人物配置に敏感に反応してしまうひと。
お父さんの十信や清音みたいに、お話をつくってしまうひと。
でも、この二つはばらばらじゃありません。
人物配置に反応してしまうひとが横にいないと、
お話をつくってしまうひとは、お話がつくる手がかりがなくて、困ってしまうのでは?


それで思ったのですけど、
『電撃』の登場人物って、みんな、目の前の人や物の配置に敏感で、そのうえ、即興的にお話もつくれるタイプのひとたちなんじゃないでしょうか?
ミチコは○○○としてタカヒロの家にやってきたのですが、
自分とタカヒロ、それに一軒家という配置に反応して、
じゃあ、わたしはタカヒロの奥さんを演じようと思った。
キョウコはどういう理由でやってきたのか、はっきり分かりませんが、
自分、タカヒロ、ミチコの配置に反応して、
ミチコのライバルを演じて、タカヒロをとりあってみようと思った。
そうして、タカヒロはミチコが自分の妻を演じれば、夫を演じ、
キョウコが恋人を演じれば、それにあわせて恋人を演じようと思った。
のではないでしょうか?


でも、何でみんな、演技をしたいのでしょう?
そうしたくなる病気があるとか?


あっ、それから。
シーン13で、十郎と盛太がキャッチボールをしながら話してますね。
盛太が「お前が守れば、耶子ちゃんは死なずにすんだんじゃないか」と言って、
すぐ近くから十郎めがけて思いきりボールを投げようとするけれども、
「盛太、そのまま彼方にボールを投げる」とあります。
このとき、投げたボールは次のシーン14のおわりになって、林の中にいるひよりにあたりそうになるんですけど、
これって、映画を見ていて、どんな感じだったのですか?
えっ、今頃、落ちてくるの? 遅ーい。だったんですか?


清水かえで


<井川耕一郎→清水かえで:『電撃』の病気、『乱心』の病気・その1>


(このメールは、『電撃』と『乱心』について論じたかなり長いものになっている。そこで、二つに分けることにした)


清水さんのメールを読んで、なるほど、そうか、そうだったのか、と『電撃』と『乱心』について見えてくるものがありました。
大工原さんとの約束でブログに感想を書くことになっているので、助かりました。ありがとう。


まず『電撃』について。
試写で見たときから気になっていたのは、タカヒロとキョウコはどういう関係なのだろうということでした。
映画のはじめの方で、タカヒロはミチコに、キョウコのことを腹違いの妹だと説明してますね。それから、キョウコの母(タカヒロの継母)については、くそ女だと吐き捨てるように言っている。
また、キョウコが妊娠していることを告げるシーンで、タカヒロは「血は争えないんだな……。産むなんて言い出すなよな」と言っている。
以上のタカヒロの言葉から推測できる彼の家族関係は次のようなものでしょう。
タカヒロの母が病気で亡くなってすぐに、タカヒロの父は再婚した。再婚相手の女はすでに妊娠していた。当然、タカヒロは継母を嫌悪し、彼女のおなかの中にいる子も嫌悪する。ところが、生まれてきた妹・キョウコを間近で見ているうち、タカヒロの中で変化が起きた。継母はともかく、生まれてきた子を嫌うことはないじゃないか。キョウコには何の罪もない……。


もし上に書いたような家族関係なのだとしたら、タカヒロの言動には欠けているものが一つあるような気がしてならないのです。それは父に対する憎悪です。
ミチコの前で、キョウコの母をくそ女と言うくらいなら、自分の父に対する憎悪がもっと表に出ていいはずです。たぶん、タカヒロの父は死亡しているのでしょうが、それでも罵らずにはいられないような憎悪がタカヒロの中にはあるべきでしょう。
キョウコの妊娠を知ったときもそうです。タカヒロは「血は争えないんだな……」なんてことは言わずに、誰の子だ?と問い質すのではないでしょうか? そうして、口ごもるキョウコを見ているうち、タカヒロの中で、キョウコを妊娠させた男と自分の父が重ね合わされ、自分の父みたいな未知の男に対する憎しみがどうしようもなくふくらんでいくのでは?


どうしてタカヒロの言動から父に対する憎悪がぬけ落ちているのだろう? タカヒロがキョウコの母に対する嫌悪ばかり表明しているのを見ると、キョウコとは腹違いではなくて、種違いのような気がするのだが。タカヒロとキョウコ、二人を産んだ母を、ひとから淫乱とかあばずれとか言われるくらい自由奔放な恋多き女というふうに設定した方がすっきりするんだがなあ。
――と、まあ、試写を見た後、しばらくはそんなことを考えていたのです。渡辺さんと冨永くんは基本設定を間違えているんじゃないかと思っていたのですね。
しかし、清水さんの、
>『電撃』の登場人物って、みんな、目の前の人や物の配置に敏感で、そのうえ、即興的にお話もつくれるタイプのひとたちなんじゃないでしょうか?
という指摘を読んで考えが変わりました。
そうか、タカヒロはミチコの「兄妹ってあんなにべたべたするものなの?」という言葉に反応して、即興的にフィクションをつくったのだ。だから、現実には種違いの兄妹であるのに、それを逆転させて腹違いの兄妹にしたのだ、と。まあ、父への憎悪を忘れてしまったのは、小説家にしては詰めが甘かったわけですが。ひょっとして、小説家としては衰弱していたというかスランプだったのかな。


清水さんは、
>でも、何でみんな、演技をしたいのでしょう?
>そうしたくなる病気があるとか?
と書いてますね。
とても面白い考え方だと思います。清水さんのこの仮説をふまえて、『電撃』を整理しなおすと、次のようになるでしょうか。
タカヒロは小説家だったが、スランプで小説が書けなくなっていた。ある日、彼はウイルスに感染した。症状は、即興的に話をつくり、演技をしたくなるというもの。タカヒロは小説家を演じる小説家となる。
タカヒロは、一人暮らしの家で小説家を演じていることに物足りなさを感じるようになる。おれには観客が必要だ。そこにやって来たのがミチコだった。
・ミチコもまた、ウイルスに感染。タカヒロの妻を演じるようになり、さらに妊娠しているという設定もつけくわえる。
・ミチコは、タカヒロと二人きりで演技をしていることに物足りなさを感じるようになる。誰かもう一人、登場人物がほしい……。ミチコはタカヒロが浮気をしているという設定を考える。そこにタイミングよくやって来たのが、キョウコだった。
・キョウコもウイルスに感染。ミチコのライバルを演じることを選択する。ミチコからタカヒロを奪うにはどうしたらいいか。ヒントはタカヒロの言動にあった。ミチコが妻のふりをしているだけの女という設定が「あり」なら、ミチコが妊婦のふりをしているという設定も「あり」じゃないの? わたしはミチコの嘘の妊娠をあばいて、彼女を追い出すことにしよう。


『電撃』で、もっとも感心したのは、キョウコがミチコの妊娠の嘘をあばくシーンでした。
リビングで、キョウコはリンゴを食べながら、キッチンにいるミチコをじいっと見ている。それから、キョウコは新聞を読んでいるタカヒロのところに行って、「ターちゃん、私、面白い秘密知ってるんだ」と言って立ち上がる。
このあとなんですね、ぼくが感心したのは。
(続けて妊娠の嘘をあばく芝居について書いているのだが、これから映画を見るひとのためにカットすることにした。ただ、嘘を一瞬であばくあざやかさには、見ていて思わずうなってしまった、ということだけは記しておきたい)
それから、キョウコがミチコの嘘をあばいたことは、キョウコが妊娠しているという設定をうみだす原因となっていますね。清水さんは前に、キョウコが本当に妊娠しているのかどうか疑問だと書いてましたが、最初のうちは、妊娠している設定ではなかったと思いますよ。
キョウコが妊娠しているという設定をつけくわえたのは、タカヒロの家を追い出されたあとのミチコです。キョウコに嘘が見抜けたのは、彼女が妊娠していたからだというふうにしたらどうだろう、とミチコは考えたのでしょうね。
かなり意地悪です、ミチコは。キョウコが妊娠しているとなると、おなかの中の子の父親のことが問題になってくる。それまでタカヒロだけを愛しているという設定でキョウコは演じてきたのだから、これは困った事態――清水さんふうに言えば、キョウコはぽろぽろ、くらくらしたでしょうね。


『電撃』についてはよく考えてみると、設定がずいぶんとあいまいだったり、つじつまがあっているんだかないんだか疑問に思うところがあったりします。そりゃあそうでしょう。ミチコ、タカヒロ、キョウコの三人が相手の芝居を見て即興的に話をつくって演じているのですから。
注目すべきは、にもかかわらず『電撃』が表現として成り立っているのはなぜか?ということです。これに対する答は次のようになるでしょうか――三人の登場人物は、ここで演じたら面白い関係はどんなものなのか(たとえば、相補的関係なのか、対立的関係なのか)ということについては、瞬時に的確な判断を行っている。だから、つじつまがあっているのかどうか疑問に思うことが出てくるにもかかわらず、表現として立派に成立しているのだ、と。
大工原さんがプレスシートで『電撃』のことを論じていて、「つまり、運動神経がいいのだ」と書いていますが、登場人物のこうしたあり方を見ていると、たしかにそうだなあ、と思います。
(続く)