渡辺あい『電撃』と冨永圭祐『乱心』についての往復書簡・第3回(清水かえで+井川耕一郎)


<井川耕一郎→清水かえで:『電撃』の病気、『乱心』の病気・その2>


次に『乱心』について。
清水さんは、シーン13で盛太が遠くに放り投げたボールが、シーン14でひよりをあたりそうになるところについて尋ねてましたね。
試写で見たときには、思わず笑ってしまいましたよ。えっ、今頃、落ちてくるの? 遅いよ、と思いました。それから、シーン13とシーン14はほぼ同時刻ということなんだろうな、と思い、映画を見終えたあとには、盛太が投げたボールがひよりを直撃しそうになるのは、盛太がひよりを犯してしまうことの伏線みたいな働きをしているな、とも思ったのです。
しかし、自分の考え方をふりかえってみると、ちょっとおかしな気もします。シーン13のボールと、シーン14のボールはちがうものだと考えてもよかったはずです。いや、その方がすっきりする。二つのシーンは同時刻なんだろうな、などと余計なことを考えなくてすむのだから。なのに、なぜぼくはシーン13のボールと、シーン14のボールを同一のボールだと思ってしまったのか?


ユクスキュルという生物学者が書いた『生物から見た世界』という本(岩波文庫)があります。面白い本です。クリサートというひとが描いた挿絵もいい。第12章「魔術的環世界」のp139に二つの絵が載っています。一つは「オトシブミの魔術的な道」という絵。もう一つは「渡り鳥の魔術的な道」という絵。オトシブミはカバノキの葉の上に、渡り鳥はアフリカ大陸の上に、幻の道を見ている。種の存続のため、生存のため、生まれつき幻の道が見えるようになっているというんですね。
しかし、p139には、オトシブミにも渡り鳥にも見えない魔術的なものがもう一つあるのです。一部分だけ重なりあっている二枚のカバノキと、アフリカ大陸の形がなんだか似ている……。一体、これにはどんな意味があるのだろう……? P139を見たら、きっと誰でもそんなことを思ってしまうでしょう。


どうやら、人間には、何の役に立つのかさっぱり分からないけれど、魔術的なものを見てしまう傾向というか、癖があるみたいです。そういう観点から見ると、シーン13とシーン14のボールを同一と思ってしまうぼくも、耶子とひよりを重ね合わせてしまう十郎の母、霞も似たような癖の持ち主ということになるでしょう。しかし、盛太と清音の二人については、癖というより病気といった方がいいのかな。あの二人にとって、耶子とひよりの魔術的な類似は破滅的な事態をもたらすものだったわけですから。


おっと、気がついたら、だらだら長いメールを書いてますね。すみません。
以下、清水さんのメールに触発されて考えたことを、できるだけ簡単に記します。


・盛太と清音は、現実の中にありえない意味を見出し、それにふりまわされる病気にかかっている。二人は無意識のうちに協力し、幻の四角関係(盛太−「ひより=耶子」−十郎−清音)をつくりだし、しまいには、十郎の実家で清音が包丁で自分の腹を刺すという事件を引き起こす。
・このとき、シナリオを引用すると、


ひより「あははははははははははははははははははは」
    ひよりが全身全霊で笑っている。


となるのだけれども、なぜひよりは笑うのか? きっと、彼女には、目の前の出来事が芝居のように見えたのだ(清音が一度でなく、何度も腹を刺すというしつこさが芝居ぽさを強調していたように思う)。ひよりの中で、病気の定義が変わりだしている。現実の中に幻のような意味を見出し、それに翻弄される病気は、フィクションをうみだし、それを実演せずにはいられない病気になりかけている。これはもう『電撃』の病気のはじまりと言ってもいい。『電撃』が『乱心』パート2に見えたのは、そのためだ。


・映画の冒頭で、ひよりと十郎は、「私、呪われてる」「だとしたら、オレも呪われている」と言っているけれども、これはどういう意味か? ひよりが呪われているのは、加害者の娘だからではない。「なぜ父はわたしではなく、他の少女を殺したのだろう?」という問いにとり憑かれてしまったからだ。同じように、十郎が呪われているのは、被害者の兄だからではない。「なぜ妹を殺したやつがオレではなく、ひよりの父親だったのだろう?」という問いにとり憑かれてしまったからだ。
・ひよりと十郎を結びつけているのは、愛ではない。「殺されていたのはわたしかもしれない」という思いと、「殺していたのはオレかもしれない」という思いが融合してうまれたフィクションが、二人を結びつけているにちがいない。


・清音が自分の腹を刺すという事件を起こしたあと、十郎とひよりは耶子の部屋でセックスする。このシーンはとても重要だ。十郎は耶子が殺された夜のことを語るのだが、シナリオでは次のようになっている。


十郎とひよりが裸になって抱き合っている。
十郎「耶子を置いて逃げ出した時、オレ、ワクワクしてたんだ」
十郎、ひよりの体を突く。
突かれて揺られているひより。
ひより「痛い…痛いよう…」
ひよりの目から、再び涙が出てくる。


このとき、十郎もひよりも自分自身でありたいとは思っていない。別の人間になろうとしている。十郎は耶子を殺したひよりの父を、ひよりは耶子を演じているのだ。


なんだか清水さんあてのメールというより、ブログ用原稿のためのメモみたいになってしまいました。
長々と書いてしまって、申し訳ありません。


ああ、そうだ。
今年の映画美学校映画祭で、冨永くんの『乱心』をやるのです(9月3日(土)18:20〜)。
シナリオを読んで面白かったというのなら、清水さんにはぜひ見てほしいのですが。
招待券、送りますよ。


井川耕一郎


<清水かえで→井川耕一郎:演技のはじまり>


『電撃』の脚本、渡辺さんと冨永さんはどんなふうに書いたのでしょう?
あたまからおしまいまで、きちんとお話をつくってから、
前半・後半に分けて、分担して書いたのではないような気がします。


妊娠している奥さんと、かげで浮気している夫がいたら、お話になりそうかなぁと思って、
出だしを渡辺さんが書いた、
それを読んで、
愛人みたいな女の子が家にやってくるけど、じつは妹で、
妊娠している奥さんは奥さんじゃなくて、○○○だったとしたらどうかなぁと、
冨永さんが続きを書いた、
それからまた、渡辺さんが書いた、
冨永さんが書いた……という感じだったのでしょうか?
ミチコ、タカヒロ、キョウコの三人が、相手の芝居を見て即興的に話をつくっていったのとよく似た感じのシナリオの書き方だったら、
面白いんですけど。


先生のメールを読んで思ったことが、もう一つあります。
ひとはなぜ「フィクションをうみだし、それを実演せずにはいられない病気」にかかってしまうのでしょう?


『乱心』の十郎、ひより、盛太、清音、十郎の両親に共通するものって、何でしょう?
たぶん、十郎の両親、盛太は、耶子に生き返ってほしいと思っているはずです。
清音は盛太のことがあるから、生き返らないでと思っているかもしれません。
それから、先生の考えだと、
十郎は耶子を殺したいと思っていて、
ひよりは耶子のかわりに殺されたいと思っているのですよね?
『乱心』に出てくるひとたちに共通するもの。
それは、殺された耶子に対する思いだと思います。


亡くなってしまえば、それでおしまいと考えるのが、
きっと、一番合理的で、すっきりした考え方なのでしょうけど、
そんなふうに割り切ってしまうことが、ひとにはなかなかできません。
亡くなってしまったひととの関係を終わらせたくないと思ってしまうことが、
「フィクションをうみだし、それを実演せずにはいられない病気」の原因のひとつになっているのかなぁと、思いました。


それでまた、『電撃』のことになりますが……
ミチコは妊娠のうそがばれて、タカヒロの家を出ますね。
でも、こっそり戻ってきて、掃除したり、食事をつくったりする。
これって、かげで○○○をやっているということじゃないと思ったのです。


たしか、映画の後半に、ミチコが橋のまん中でぼんやりしているシーンがありましたよね?
そこにタカヒロがやって来るんですけど、
タカヒロは黙ってミチコの横を通り過ぎてしまう。
それが無視したという感じではなかったのです。
ミチコが見えてなかったみたいというか……


で、思ったのです。
妊娠のうそをあばくとき、キョウコが××××しますね(ネタバレになるので、ふせておくことにしました(清水))。
あのとき、キョウコはミチコに「あなたは死んだの」と言いたかったのでは?
だから、こっそり家に帰ってきて家事をこなすミチコは、幽霊を演じているのだと思います。


『電撃』でも、『乱心』と同じように、
お芝居を演じることが、亡くなったひととの関係を終わらせたくないという思いとつながっているような気がします。
だから、終わりの方で、ミチコの姿を見たとたん、
タカヒロは「やっと会えた。結婚しよう」と言うのでしょう。
でも、生きているひとがそのままで幽霊と結婚するのは、昔から無理な話と決まってますよね?
それで、タカヒロは****れてしまったのだと思います(ここも、ネタバレになるので、ふせておくことにしました(清水))。


それから、
タカヒロが書いているふりをしている小説、
ミチコやキョウコのお腹にいることになっているうその赤ちゃんは、
幽霊の仲間ではないでしょうか。
この世に出てくることなく、あの世にとどまるしかないのですから。


清水かえで


<清水かえで→井川耕一郎:『乱心』、見ました>


招待券、ありがとうございます。
冨永圭祐さんの『乱心』、見ました。


シナリオを読んだときは、シリアスなサスペンスなのかなぁって思ってたのですが、
完成した映画はコメディってことじゃないんですけど、
笑えるところがあるものになっていました。


ひよりが「あはははは……」と全身全霊で笑うところ、
先生は、「彼女には、目の前の出来事がお芝居に見えたのだ」と書いてましたが、
映画を見て、なるほどなぁと思いました。
あのシーンで、十郎のお母さんはシナリオとちがって、隣の部屋で正座しているんですね。
なんだか、楽屋で出番を待っている役者みたいでした。


そうして、よし、今だ!というとき、
お母さんは、パーン!と襖を開けて、みんなのいる部屋にのりこんできます。
でも、お母さんの前にはちゃぶ台があるのです。
どうするのかなぁと思っていたら、
そのちゃぶ台の上にのっかって、堂々とまっすぐ歩いてきたので、
びっくりしてしまいました。
思わず笑っちゃったんですけど、
同時に、演じることにとりつかれたお母さんの姿に感動もしたのです。
いびつな映画だったけど、面白かったです。


それから、ユクスキュルの『生物から見た世界』、読みました。
2枚の葉っぱと、アフリカ大陸、よく似ているなぁと思いました。
でも、先生のメールを読んだから、そう見えてしまったのかも。
先生にだまされてるような気がちょっとだけするのですが……


「魔術的環世界」ですけど、
『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』の「あいつ」と関係があるかなぁと思いました。
(このあと、『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』のことが続きますが、カットしました(清水))


清水かえで


追記:たしかに、ユクスキュルの「魔術的環世界」という考え方は、「あいつ」のヒントになっています。(井川)