渡辺護監督が亡くなりました/その監督人生をふりかえる(井川耕一郎)



(以下の文章は、2014年1月2日に渡辺護公式サイトに掲載したものです)


2013年12月24日、渡辺護監督が82才で亡くなりました。
10月に新作を撮る話が来て、周囲の人々に「面白い映画を撮ってみせるよ!」と宣言していたのですが、11月2日に外出先で倒れ、病院に運ばれました。
検査の結果、大腸がんであることが判明。
その後の詳しい経緯はこちらをどうぞ。
→ http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20131229/p1


渡辺護は1931年3月19日東京生まれ。
早稲田大学文学部演劇科に入学後、八田元夫演出研究所に入り、演出と演技について学びました。
その後、TVドラマの俳優、シナリオライター、TV映画・教育映画の助監督などを経て、1964年に南部泰三『殺された女』の助監督としてピンク映画の世界に入ります。
1965年、大映出身の監督・西條文喜のために企画していた『あばずれ』(脚本は吉田義昭)で監督デビュー。


渡辺護が何本の映画を監督したのかは正確には分かっていません(現在、確認できる監督作品は210本程度。実際にはそれ以上撮っていると思われます)。
フィルムが残っているものはほんのわずかで、時代的なかたよりなく百本以上の渡辺護作品を見ているひとはほとんどいないと言っていいでしょう。
そこで、私たちが代表作と考える作品タイトルを記すのはひかえて、渡辺護自身が自分の監督人生と作品をどのように見ていたのかを以下に記すことにします。
渡辺護フィルモグラフィーはこちら。
  → http://watanabemamoru.com/?page_id=7 )


<1965年〜1973年>

1965年に少女の復讐を描いた『あばずれ』で監督デビューした渡辺護にとって、新人監督時代はピンク映画の青春期でもありました。
映画が撮れるというだけで幸せだった時期、若松孝二(62年にデビュー)や向井寛(65年にデビュー)らと競い合うようにして映画を撮っていた時期、メジャーの映画に対抗するように映像の冒険をしていた時期だった、と語っています。


1967年に渡辺護は『情夫と情婦』(『深夜の告白』の翻案)で監督としての腕を認められて東京興映に入ります。
東京興映の社長は、ヒット作『日本拷問刑罰史』(64年)を撮った小森白。「お前のほかに、誰か戦力となる監督はいないか」と言う小森白に、渡辺護は同じ65年にデビューした山本晋也を推薦し、東京興映でなければできない映画として、小森・山本・渡辺の三人で監督する『悪道魔十年』(67年・修行僧が暴行魔となって放浪する話)を企画します。


しかし、1968年、小森白との間にちょっとした誤解が生じ、渡辺護は東京興映を離れます(70年頃、山本晋也が間に入って、関係は修復されます)。
「教育映画にでも戻ろうか」と思っていたらしいのですが、結局、ピンク映画を捨てることはできなかった。
ほとんど仕事をすることなく(68年の監督本数は四本と極端に少ない)、映画館で他の監督たちが撮ったピンク映画を見続けていたそうです。


実は以前から渡辺護の中には、「デビュー作『あばずれ』を超えられない」という悩みがありました。
撮影の竹野治夫など、戦前からのベテランに助けられて、『あばずれ』はそれなりのものにはなったけれども、今後、渡辺護でなければ撮れない映画を撮るにはどうしたらいいのか……?
その悩みに対する答が見つかったのが、68年でした。
山本晋也や小森白の映画を見ているうちに、「主観カット/客観カット」という独自の映画理論が生まれ、「おれは面白い映画が撮れる!」という自信を得たと言います。
(「主観カット/客観カット」理論についてはこちらをどうぞ
→ http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20081116
  http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20081120 )


女ヤクザものの『男ごろし 極悪弁天』(69年)、木下恵介『女』の翻案の『明日なき暴行』(70年)あたりから自信を持って映画を撮りだした渡辺護は、1970年に、以前からその才能に注目していた大和屋竺の脚本で二本の映画を撮ります。
『おんな地獄唄 尺八弁天』(『極悪弁天』の続篇)と、『(秘)湯の街 夜のひとで』(さすらうエロ事師たちの話)――この二本は渡辺護自身も代表作と認めているものです(特に愛着があるのは、『尺八弁天』。大和屋が書いた弁天の加代に惚れたとのこと)。


1971年、渡辺護は東京興映で大久保清事件を題材に『日本セックス縦断 東日本篇』を撮ります(この作品は大ヒットしたとのこと)。
大久保清が逮捕されたのが5月で、撮影は6月。当初、大久保清が犯罪者になるまでを描く予定だったのですが、クランクイン直後にプロデューサーの小森白からかかってきた電話は、「八件の暴行殺人事件を全部撮れ」というもの。
結果的に太田康(下田空と小栗康平)によるシナリオの直しと同時進行で、撮影が進められました。しかし、完成後に渡辺護は「いい勉強になった」「映画はどうやってもつながる」と感じたそうです。


<1974年〜1982年>


1973年くらいまでの渡辺護作品の脚本家は石森史郎阿部桂一、吉田義昭らでしたが、その後は次第に若手(荒井晴彦高橋伴明、小水一男)が脚本を書くようになります。
1974年に撮った『制服の娼婦』(売春する女子高生と若い男の同棲生活を描いたもの)、『痴漢と女高生』(女子高生を拉致監禁する中年男の話)の脚本は荒井晴彦
渡辺護はこの二作について、荒井晴彦の作家性がよく出ている作品で、自分の代表作でもあると語っています。


1973年に小森白はピンク映画に見切りをつけ、監督を引退します。けれども、新東宝は小森が『日本拷問刑罰史』によって始めた拷問ものをその後も求めていました。
70年代半ば、若松孝二山本晋也に続いて、渡辺護にも新東宝から拷問ものの注文が来ます。
しかし、渡辺護は、拷問ものとはちがうもの、縄をベッドシーンの小道具として使うものを撮ることを模索します。このときに脚本家として協力したのが高橋伴明でした。
高橋伴明脚本で、『谷ナオミ 縛る!』(77年)、『少女を縛る!』(78年)、『少女縄化粧』(79年)、『聖処女縛り』(79年)を撮っていく過程で、渡辺護は拷問ものとはちがう自分なりの表現(「緊縛もの」と呼ばれるようになる)をつかんでいった、と語っています。
(ちなみに、この頃には、よく組むキャメラマンが池田清二から鈴木史郎にかわっています)


1979年頃から、高橋伴明と交代するように協力者となっていったのが小水一男でした。
渡辺護は小水一男のオリジナリティーに支えられて、『激撮!日本の緊縛』(80年)などの緊縛ものを撮り続けていきます。
この時期は日野繭子・岡尚美が出演する緊縛ものの時期であると同時に、『制服処女の痛み』(81年)で美保純を、『セーラー服色情飼育』(82年)で可愛かずみをデビューさせた時期でもありました(二作とも脚本は小水一男)。
渡辺護は、魅力的な新人女優に出会うと、作品としてのまとまりや完成度などどうでもよくなって、その子の持つ輝きをひたすら記録することに喜びを感じるような監督でした。
美保純、可愛かずみは、『紅壺』(65年)の真山ひとみ、『禁断性愛の詩』(75年)の東てる美の系譜に連なる女優であると言えるでしょう。


<1983年以後>


70年代に入ってから、渡辺護は月にほぼ1本(あるいはそれ以上)という驚異的なペースで映画を撮り続けてきましたが、初の一般映画『連続殺人鬼 冷血』(渡辺自身は『日本セックス縦断 東日本篇』の二番煎じみたいな作品と厳しい自己評価をしています)を撮った1984年あたりから、本数が急速に減っていきます。
渡辺護は当時をふりかえってこう語っています。「代々木忠の『ザ・オナニー』とかがあたるようになって、ベッドシーンがあればそれでいいみたいな風潮が出てきた」「「面白いものつくってやる!」ってのがなくて撮ってるってのはね……、つらいですよね」「滝田(洋二郎)や片岡(修二)の方がおれよりうまいわと感じたことがある」
80年代後半、渡辺護は自分の時代は終わったと感じたのか、ピンク映画界を去ります。


その後の監督人生を渡辺護はどう見ていたのか?
沖島勲の脚本で撮った『紅蓮華』(93年)を渡辺護の代表作の一つにあげるひとは、現在かなりいます。
けれども、渡辺本人は「決していい出来だとは言えない。失敗しているところがいくつもある」と最後まで言い続けていました(役所広司の演技は別にしての話ですが)。


<ピンク映画監督・渡辺護


数年前、渡辺護は「渡辺さんほどの腕なら、一般映画でも十分通用したはずなのに、なぜピンク映画を撮り続けてきたんですか?」と訊かれて、その場できちんと返答できなかったそうです。
あとになって、渡辺護は考えを整理して、こんなことを私(井川)に話しました。
「メジャーだと、おれの上に誰かいて、こう撮れ、ああ撮れと指図してくる。それがイヤなんだ。おれはおれの選んだホン、おれの信頼するスタッフ・役者で、おれの好きなように撮りたい。早く言やあ、お山の大将になりたいってことかな。そういう自由があったのがピンク映画なんだ」


渡辺護が最後に撮ろうとしていたのは、ピンク映画でした。
そのことを思うと、なぜこのタイミングで亡くなってしまったのか……と本当に残念でなりません。


<追記>


渡辺護さんの奥さん(典子さん)はここ二ヶ月の看病で心身ともに疲れています。
よって、渡辺護に関する問い合わせは、以下のメールアドレスで対応したいと思います。よろしくお願いします。
 渡辺護自伝的ドキュメンタリープロジェクト 井川
wmd1931※gmail.com (※を@に変えて下さい)