作品紹介『よろこび』『黒アゲハ教授』『犬を撃つ』

5月28日(日)に『よろこび』(松村浩行・2期)と『黒アゲハ教授』(福井廣子・2期)を、29日(月)に『犬を撃つ』(木村有理子・2期)を上映することになっているので、2期1stCut(その頃はFourFreshと呼んでいましたが)のパンフレットからあらすじと監督コメントを再録することにします。どれも読み物としてなかなか面白く書いてあります。特に『黒アゲハ教授』の監督コメントは傑作ではないでしょうか。その後、福井廣子さんがまるで尾崎翠岡田史子のように沈黙してしまったのは実に惜しい。残念だ。(井川)



『よろこび』(99年/16mm/30分)
監督・脚本:松村浩行
出演:遠山智子(アオシギ)、西山洋市(ダイゴ)、万田邦敏(松本さん)

<あらすじ>
数十名の労働者が黙々とドラムを叩いている。「リズム社」の仕事とは、ひたすら“リズム”を生産することにある。ベテラン労働者の松本は、はたちの娘アオシギに、会社をクビになったことを告げ、去っていく。松本の代わりに入社したのは、ロカビリーくずれのダイゴだった。ダイゴに興味をひかれるアオシギ。ある日の昼休み、ダイゴはアオシギに「君は幸せなのか?」と声をかける。「このむなしい繰り返しを断ち切るんだ。人生を変えるんだ」やがてダイゴは、ドラムを乱打し、全体のリズムを乱し、会社を飛び出していった。数日後、アオシギは、かつての同僚の松本と再会する。「人生の意味っていうものを忘れてしまった人間は死んだも同然です」と松本。「それが会社を辞めた理由なんですか?」とたずねるアオシギ。「あなたはどうなんです?」と問い返す松本に、アオシギは「わからない」と答えるしかなかった。一方、ダイゴは、路上で横笛を吹いていた謎の四人組に「リズム社」のドラム強奪を提案する。深夜、悩めるアオシギは、決意を胸に秘め「リズム社」に忍び込む。暗闇の中、彼女はドラムを盗もうとする四人組と出会うのだった……。

<監督コメント>
「周りの状況に対する個人の戦い」というフレーズを、なんとかこの小さな映画の主題にすべく、つねに頭に刻み込むようにしていた、ということがありました。この数ヶ月間、迷ってはいけない、信念をもたなければなにひとつ伝えることはできない、と自戒しつつも、とにかく行くべき道を見失いがちだっただけになおいっそう、自分じしんを、進行中の映画込みでまるごと支えてくれるような「言葉」に対して、意識的にならざる得なかったかもしれません。
ですから、まずアオシギを頼りないなりにも「個人」としてとらえ、かたちづくることが大切でした。と同時に、これは撮影前にアオシギを演じてくれた遠山さんとも話したことですが、アオシギの後ろ(前?)に無数の姉というか、類型としての先祖を連ならせたいという妄想がありました。つまり、同時代の風俗とのあいだに気の利いた細部を共有させることよりも、むしろ、百年前なり千年前なりの、あらゆる国々の「若い娘たち」とのあいだに、その本質的な「血縁」を証拠だてる糸を張っておきたかったのです。この映画が、その子供っぽい設定や道具立ては別としても、どこか寓話めいた印象を与えていたとすれば、おそらくは、アオシギのみならず登場人物たちの存在のありようが、「個」でありつつも同時に「類」である状態を夢見ているからでしょう。
「戦い」の結末をある種の抒情のうちに解消してしまったかもしれない、というこころ残りはあります。「戦争映画」にしてみたいという一時期の希いも、遥か彼方に消え去りました。しかし、まどろみの中で聞こえる「ねむっちゃダメだ」という唐突かつ異質な警告の言葉が、かすかに倫理的な厳しさを帯びて響いてくれたなら、私もアオシギも目を覚まし、歩きつづけることができます。


『黒アゲハ教授』(99年/16mm/30分)
監督・脚本:福井廣子
出演:水谷郷(マモくん)、倉沢愛(カナコ)、山崎剛太郎(金森教授)

<あらすじ>
老朽化のため取り壊し予定の校舎。定年を迎えた金森教授の研究室で、荷造りを手伝う医学生のマモくん。彼は、室内に立ちこめる古本の匂いに、ここが彼が幼い日を過ごした「物憂げ坂上」に似ていることに気づく。
数日後、カウンセリングを受けるために廊下で順番を待っていたマモくんは、幼なじみのカナコと再会する。幻聴が聞こえるという彼女もカウンセリングを受けに来ていたのだ。彼の幻想の中で、以前二人がいた場所、黒アゲハが宙を舞う「物憂げ坂上」の世界が広がっていく。
「老人の肌は薄くてさらさらで、白い粉をはたいてある様、それはまるでちょうちょの羽の白い粉」。バスに乗っている金森教授に虫取り網をかぶせる二人。網の中には一匹の“黒アゲハ教授”が捕まる。
以前と何も変わらない金森教授の研究室。二人は、黒アゲハ教授に古本の蜜をあげようと、「スポンジの少し焦げたところを薄くした香りがする」本を手に取り……。

<監督コメント>
私はいつでも左うえ頭上に黒アゲハを飛ばせます。つい凝視してしまった蝶たちは撮影中とり澄ました禽獣のようでした。解禁されし稀少な蝶でした。そうした今でも私は黒アゲハを慕っているのです。
“物憂げ坂上”の条件の一つに黒アゲハの羽の粉が舞っていることがあって、思うに蝶の羽の白き鱗粉と、清らかな老人の肌の角質とは同一と信じていた私に、黒い蝶は黒い鱗粉、白い蝶は白い鱗粉、斑点があればそこだけその色。などと知らされ、その事実を呑めない私はクランクインを前にガヤつく美学校ロビーにて、テーブルの上には見本に借りた、どこか南方の黒アゲハ蝶の標本が置いてあります。私は少し見計らう様にその一片に指を触れてみると、先裏には香る煤。そのうち紋白蝶教授にしようかという話も出ましたが、どうも紋白蝶は私の師ではないのでやめました。この見込みちがいは殆どみんなも知らないことでしたので、初稿のシナリオのまんまにしました。
蝶集中撮影に当たった美学校教室にて、カナコ役の倉沢さんは黒アゲハをつまみてライトのなか本番を待つ。そのクシュクシュする足部と、羽の持ち場所を気にするその目の上下につけ足し盛ったりと、伸び乾いて黒き睫毛とが、大分似ていると分かりました。
組には蝶隊が出来、春のアゲハと夏のアゲハの中間になる数の少ないらしい時期に、幾度と三浦半島へ行き、首からカゴを下げ網を高々に駆け回った方々に感謝します。
本日黒アゲハを御覧いただいたのなら、その床までいきたいです。


『犬を撃つ』(99年/16mm/32分)
監督・脚本:木村有理子
出演:堀江慶(裕紀)、山内知栄(麻紀)

<あらすじ>
裕紀は「家を処分する」という母からの連絡を受け家に帰って来る。部屋に入ると、突然電話が鳴った。聞き覚えの無い男の声が「あの時俺を見てたじゃねえか」と言うと一方的に切れた。この電話をきっかけに、裕紀は、子どもの頃に見た不可解な光景を思い出す。それは真夜中、死体を引きずる見知らぬ男とそれを見守る母の姿だった。
夜になるが、依然として母は姿を現さない。裕紀は数年ぶりに再会した姉の麻紀に「あの日の夜、一体何があったのか」と問い質す。姉は、父が見知らぬ男と母によって殺害され、庭に埋められたのだと打ち明け、指でその場所を示す。真偽を確かめるために庭を掘り返す裕紀。しかし、そこには何も埋まっていなかった。振り向くと闇の中に母の服を着た謎の女が二階の窓辺に浮かび上がる。慌てて部屋に戻ると、ずぶ濡れの男が背後に立っていた。過去と現在。幻想と現実が次々と交錯していく。混乱した裕紀はただ夜が明けるのを待つしかなかった。

<監督コメント>
「さよならを言いそこねた友達」というのは、誰もが持っている痛い思い出だと思う。私には、「さよならを言いそこねた家」というのがある。引越しした後も、空き家のまま存在し続け、数年に一度は、何となくいって中に上がり込んでしまう。その時のぽつんと取り残された薄ら寒い感じ、時間が流れているのになおも同じ場所があることの狂おしくなるような感じを誰かに伝えたいと思っていた。
例えば、子どもの頃と同じように、ある季節のある時間帯になると、庭の木の影が廊下に落ちることを発見したときの驚き。この影が風に揺れているのを見ていると、まるで幽霊を見ているような気持ちになってくる。そして、段々と、その家自体が怖くなってくる。幽霊という言葉の意味をつくづく考えた。この家は幽霊なのだな、と思った。
そこで記憶をたどり直そうとしたのが、最初につくった8ミリ映画だった。その次に作ろうとしたのは、裏山に埋まっている死体の話で、その幽霊が記憶を語っていくような形式にしたいと思っていた。裏山に、時々はいってくる猟師とその犬を、幽霊が猟銃で撃つというシーンがあった。結局その話は巧くまとまらずに、「犬を撃つ」というタイトルだけが、今回の作品に持ち越されたのだ。今回は、空き家を舞台に、幽霊の話を作ろうと思った。家族(父親)の死体が庭のどこかに埋まっているのではないかというオブセッションに取りつかれ空き家に帰ってくる弟。彼を迎え撃つ姉は、その家に憑く幽霊だ。弟は雨月物語のように、幽霊と共に一晩を過ごすのだ。家はただそれを見ている。その夜に起きることは、彼にとって悪夢のような体験だけれども、同時に甘い夢なのだと思う。幽霊を見ることができるのは、とても幸せな事だ。その人はもう、いないのだと気づく事にこそ、主人公は、怯えているのだから。