『INAZUMA 稲妻』について(井川耕一郎)

映画芸術』NO.414(特集「2005年日本映画ベストテンワーストテン」)に書いた文章です。(井川)


『赤猫』(大工原正樹)10点
『INAZUMA 稲妻』(西山洋市)10点

 『赤猫』については、阿部嘉昭が的確な批評(『日本映画の21世紀がはじまる』に収録されている)を書いているので省略。ここでは、西山洋市映画美学校の授業で監督した『INAZUMA 稲妻』について、ちょっとだけ記しておきたい。
 TVドラマの殺陣を撮影中、主演男優の刀が女優の頬を切り裂く事故が起きる。ナースが、頬の傷がうずき、火照るのなら、何か冷やすものをお持ちしましょうか、と尋ねると、女優はぽつりと呟くように言う。いいんです、仕返しすればいいんです……、と。
 女優は撮影現場に復帰するが、血管が赤黒く浮き出たような傷痕をさらして主演男優に戦いを挑む姿は、どこまでが演技なのか分からない。そしてついに撮影の合間に女優は男優に斬りかかる。「この頬を斬ったときみたいに真剣を使ってよ! オモチャじゃ、しらけるじゃない」「……また、お前を斬ってもいいんだな」
 それから、二人の演技はシナリオを無視して暴走する。息たえだえになりながらも、互いの体を斬り合うさまは、どう見ても異様だ。それは単なる相手を殺そうとする演技ではない。彼らはまるでたくさんの傷をつけることで、相手の体をうずき火照る肉塊に変えようとしているかのよう――つまり、死闘であると同時にセックスでもある斬り合いなのだ。そして、そのエロチックな殺陣をTVで見て、男優の妻や、女優を慕う消防士は、激しい嫉妬にかられることになる……。
 大和屋竺は、残酷でエロチックな映像に見入ってしまうことを「見ることの罪」と呼び、それを映画の本質にかかわるものと指摘したが、西山洋市もまた『INAZUMA 稲妻』で「見ることの罪」をとことん探究している。冒頭の頬を斬られる事故をはじめとして、何度かカメラのファインダーを模した画面が挿入されるが、その画面が出るたび、私たちは惨劇が起こることを期待するようになる。しかし、考えてみれば、画面を四分割するように十字のマークが大きく入っているファインダーなどあるわけないのだ。なのに、それを当然であるかのように私たちが受け取ってしまうのは、十字が私たちの「見ることの罪」に押された烙印であるかのように感じられるからではないだろうか。
 それにしても、たった三十分とは思えない濃密な表現である。西山洋市の最高傑作というだけでなく、ここ数年で最も動揺させられた映画であった。まだ二回しか上映されていないが、ぜひ多くのひとに見てもらいたい作品だ。
 日本映画の話ではないが、最後に気になる映画作家のことを書いておきたい。
 以前、ペドロ・コスタ映画祭のチラシを見ていたら、有名監督の推薦の言葉がいくつも並んでいた。どれもこれもペドロ・コスタを映画史に何とか位置づけようとする言葉だったが、中に一つだけ変なコメントがあった。「ポルトガルの監督はブルジョワばかりだ。貧乏なのはペドロ・コスタとおれくらいだ。ジョアン・セザール・モンテイロ
 一体、このモンテイロとは何者なのだ? モンテといえば、モンテ・ヘルマンだが、同じくらい歪んだ映画作家なのだろうか? どうにも知りたくてうずうずしていたら、葛生賢がモンテイロ上映会を定期的に開くというので通うことにした。
 英字幕付きのポルトガル映画なのできちんと理解できたとは言えないが、やはり変なひとであった。『細道』の最後には製作費が明記されている。おれはこんな低予算で撮ったんだぞ、ということなのだろうか。その貧乏自慢が何だかおかしい。『シルヴェストレ』は主演の少女の撮り方がただごとではない。モンテイロが少女に惚れていたことは明白だ。ベッドで眠る少女の胸を悪魔がもむシーンがあるのだが、その悪魔の手をモンテイロ自身がやったという噂もある。どうしようもなく下心みえみえの映画である。
 そして、『黄色い家の記憶』では、モンテイロ自身が主演である。モンテイロ演じる仕事もなくぶらぶらしているだけの主人公は、下宿の共同浴室を女性が使用したあと、すぐさま入って、残りの湯を飲み、落ちていた陰毛を拾って持ち帰る。まったく、どうしようもないおっさんである。だが、間違って地球に落ちてきた宇宙人みたいなたたずまいなので、放っておけない奇妙な魅力がある。それにしても、この風貌、前に似た感じのひとを見たことがある……と思ったら、金井勝であった。そういえば、モンテイロは、大和屋竺、金井勝らと年齢が近いという。あの世代のひとたちはどうしようもなく表現が歪んでしまうのだろうか。誰か、モンテイロを日本語字幕付きで本格的に紹介してほしい。