『よろこび』『黒アゲハ教授』『犬を撃つ』について(井川耕一郎)

99年の2期1stCut公開のときに生徒からの依頼で書いた文章で、1stCut宣伝サイトに掲載されたものです。「四本の作品どれにも愛着を感じているので」というのは単なる前置きではなく、当時、間違いなくそう思っていたはずで、そのせいか作品から距離をとって冷静になろうとするあまり、文章が全体に批判めいた調子になってしまったようです。ちなみに、2期の1stCutには『よろこび』『黒アゲハ教授』『犬を撃つ』のほかに、もう一本『集い』(遠山智子という作品があって、これに関してはちょっと長めの感想を別に書いています。(井川)

追記:1stCut ver.2005の宣伝サイトがオープンしました。
   http://www.1st-cut.com/index.html



(松村浩行『よろこび』)


坂口安吾の言うとおりだ。(井川耕一郎)

 四本の作品どれにも愛着を感じているので、冷静な批評はできそうにないけれど、とにかく感想を書いてみよう。木村有理子『犬を撃つ』でドラマの核となっているのは、主人公の青年が子どもの頃、姉と一緒に真夜中に目撃した死体遺棄らしい光景である。その不吉な光景は前後の脈絡を欠いていて、第三者の目から見れば、現実にあった出来事とはとうてい思えない。しかし、主人公の中では、その光景が姉弟だけが知る秘密として長いことしまわれていたためか、奇妙なリアリティを獲得している。私が最も刺激を受けたのは、この「秘密の共有」という主題だ。この主題は私に子どもの頃のことを思い出させた。あの頃の私は妹の喘息の発作をうっとうしく感じていた。のどから洩れるヒューヒューという呼吸音も不快だったが、それ以上に混濁した意識で口走るうわ言がひどく不快だったのだ。ある夜、私は発作を起こした妹に、魚、いっぱい、釣れたの?と訊ねられたことがある。また呆けた頭でうわ言を言いやがって、と私は文句を言いながら、自室に戻ったのだけれど、布団の中で思ったのは、自家製の釣り竿のどこに欠陥があったのかということだった。どうやら、あの夜の私は、いつまにか自我のたががゆるんで、妹の妄想の中に流れこみ、行ったことのない釣りにすっかり行った気になっていたのだ……。要するに、私が『犬を撃つ』に一番求めていたものは、近親相姦とは異なる、姉弟の間を流れる官能的な時間だったのだろう。私のその欲望は、庭に掘られた穴の中に横たわる姉を見たあたりで、かなり満たされた。これは本当にエロチックなイメージだ。とは言え、映画の後半、主人公の青年がすんなりと姉の欲望の中に入っていくのが気になった。もう少しだけ、弟は姉の無意識に抵抗すべきではなかったか。このことは具体的に言うと、浴室の排水口から発見された腕時計をめぐって、姉弟には言葉を交わしてほしかったということになる。
 どこか尾崎翠を思わせる福井廣子『黒アゲハ教授』の脚本を読んだときには、まず「物憂げ坂上」というユーモラスな字面の地名にうなってしまった。たしか私は、主人公の二人の男女が子どもの頃に住んでいたというこの地名について、レジュメでキンクスの『ウォータールー・サンセット』を引き合いに出して、味わい深いと書いたはずだ。また、物憂げ坂上を物語に導入するための時間と空間の飛び方も鮮やかで、脚本は第二期初等科のベスト1であったと思う。完成した映画を見ると、丁寧に撮られていて、特にラスト近くで主人公二人が黒アゲハに見入るカットなど、実に素晴らしいものだった。けれども、欲を言えば、カットごとの時間と空間の飛び方は、もっと大胆でもよかったのではないだろうか。また、主人公二人が再会する精神病院のシーンでは、彼らの病気の切実さをもう少し強く印象づけておく必要はなかったか。私の知人には精神病院に入院した人が何人かいるけれど、その中に自宅マンションから身を投げて亡くなった人がいる。病院の待合室で長いこと待たされた後、通り一遍の診察を受けて家に戻ってきた彼は、「何だか、疲れたな」と呟くと自室にこもり、その日の夕暮に身を投げたのだという。おそらく自殺直前に、彼は窓の外に目をやりながら、自分には完治する見込みがない、と思ったにちがいない。そのとき、彼が見た光景こそ、物憂げ坂上と呼ぶべきものではなかったろうか。物憂げ坂上は、人が死へと誘われるときに出現する場所でなくてはならない。ラスト近くの、主人公二人が黒アゲハにじっと見入るカットには、確実に死の気配が映っていた。あのカットと同じくらいタナトスを孕むカットが一つでも精神病院のシーンにあれば、物憂げ坂上という地名はもっと忘れがたいものになっていたと思う。
 松村浩行『よろこび』の主人公は、「リズム社」という会社でドラムを叩くバイトをしている。だが、彼女はドラマーではなく、単にリズムを製造しているだけなのだという。これは何とも人を食ったバカバカしい設定だけれども、どこかで私たちが労働に対して抱く実感と響きあうところがあって秀逸だと思う。たとえば、原稿を書く仕事が、単に何枚もの紙切れをせっせと汚すだけの肉体労働にしか見えないときがある。締切日の朝、あと数枚で書き終えるというときに、缶ビールを飲んで一休みすると、私はいつもそういう思いにとらわれていたものだ(ちなみに、今はもうそんなアホな書き方はしていない。念のため)。話をもとに戻すと、松村君の『よろこび』の中には、労働をめぐる珍妙な着想が、リズム生産のほかにもいくつか入っている。たとえば、報酬を受け取るのを断固として拒絶する笛吹き集団がそうだし、分かったようでさっぱり分からないリズム社内の賃金格差もそうだ。だが、映画を最後まで見たときに、あと少しだけ弾けた笑いがほしい、と思うのはどうしてだろう。たぶん、それは、パターン通りの物語展開を恐れない図々しいお気楽さがちょっと足りないからではないか。やはり、こういうお話なら、恋と革命をぬけぬけと唄いあげた方がいいに決まっている。主人公の少女は誰かときちんと恋に落ちてほしいし、映画の後半ではリズム社と正面から驚き呆れた対決をしてほしいのだ。遠山智子西山洋一が無愛想にドラムを叩くカットや、無闇にでかい牛の面をかぶった人間が唐突に登場するカットなど、思わず笑ってしまう画をいくつも撮っているだけに、今回の松村君はどうも惜しい気がしてならない。君なら、もっと先まで行けるはずだ。
 遠山智子『集い』については別に論じるとして、最後に講師をやった感想を記しておこう。怠け者で酔っぱらいの私(今は飲んでいない)にあまり偉そうなことは言えないが、坂口安吾の名言は学校という場にもあてはまると思った。「親があっても子は育つ」――というか、それしか道はないのだ。なぜなら、表現の核心は教えようがないからである。