『INAZUMA 稲妻』のシナリオの作り方(西山洋市)

「INAZUMA 稲妻」の脚本は映画美学校7期高等科の片桐絵梨子に書いてもらったものですが、その元ネタとなった企画自体は僕が提示したものでした。僕が提示した企画は、A4の用紙で1ページ半ほどの大雑把なプロットです。プロットというのは、脚本の基本的な骨組みを大まかに記した脚本の設計書のようなものです。
 この最初のプロットと完成した「INAZUMA 稲妻」の脚本はちょっと違ったものになっています。表面的にはちょっとの違いなのだけれど、作品の核心においては決定的に違うと言えるような変更がなされています。それは、脚本作りに取り掛かった初めからそのように変えようとしてなされた変更ではありません。脚本作りの過程で、ある時、ふと浮上してきたコンセプトによって、元のプロットに新たな方向性が導入された時にはじめて決定的な変更が求められた、ということです。ここで言う「方向性」とは元のプロットを見直す新たな視点のことで、その視点に基づいて元のプロットから新たなテーマが掴み出された、ということです。また、「ある時、ふと浮上してきたコンセプト」というのは、「現代劇に、アクション物とは違うコンセプトで『チャンバラ』を導入しよう」という考え方のことです。そういうコンセプトを立てるためには、片桐絵梨子による脚本の第1稿が必要でした。


 最初のプロットには、完成した「INAZUMA 稲妻」にある基本的な人物関係と事件の展開はすべて盛り込まれていました。
 最初のプロットの基本的構成を要約すると、
1、「テレビのヒーロー物で主役のヒーローを演じている中年の男優」がいる。「その正義のヒーローに敵対する悪の組織の一員を演じる女スタントマンは、ヒーローとの戦いを演じる撮影中の事故で顔に傷を負い、女優を引退せざるを得なくなる」
2、「女スタントマンはヒーローを怨み、ヒーローへの復讐を目論むが、女はその復讐を、あくまでも役として演じていた悪の組織の一員として遂行しようとする」すなわち「女は、悪の組織との戦いが行われるはずの撮影現場に向かうヒーロー役の男優をあの手この手で襲撃し、ヒーローを倒すことによって悪の組織に勝利をもたらそうとする」のだ。
3、そのために「女は元消防士だった男を手下として使う」のだが、「度重なる襲撃は不首尾に終わり、最後の手段として女は男優の妻(元ヒロイン役の女優だった)を誘拐して男優を脅迫」する。「男優が悪の組織との戦いを放棄して指定の川岸に来なければ、棺おけに閉じ込めた男優の妻を川に流してしまう」というのだ。
4、「男優は妻を助けるために川岸に現れる。そして男優と女スタントマンとの最後の戦いが行われる」のだった。


 読めば分かるとおり、このプロットの狙いは例えば「007シリーズ」のような娯楽アクション映画です。これを脚本化するにあたって、参考として僕が上げた映画も「007/ロシアより愛をこめて「大列車作戦」「新ドイツ零年」でした。


 片桐が書いた脚本第1稿は、主役の男女が出演している「テレビのヒーロー物」という設定を「テレビの時代劇」に変えてある以外は、だいたいにおいて僕が出したプロットの展開に沿って書かれた「娯楽アクション物」でした。「ヒーロー物」から変更された「時代劇」という要素も、この時点では表面的な変更に過ぎず、そのことによって作品の核心に決定的な何かをもたらすものではありませんでした。それはそれで片桐の独特なユーモアのセンスが発揮された面白い脚本だったのですが、対立する男女の関係のドラマに深みがないという弱さを感じました。「娯楽アクション物」にそれが必要なのかと言われるかもしれませんが、「娯楽アクション物」だからこそ、より映画を面白くするためにも、それは必要なのです。この脚本の場合、主役の男女の対立から起こるアクションなのだから、そのアクションは男女の対立のドラマと等価、というかドラマそのものでなければならないのです。もうひとつ、脚本に描かれたアクションシーンのスケールや仕掛け(といって普通の商業映画にくらべれば大した物ではありませんが)が、この映画の製作に課せられた撮影日数5日・予算数十万円という枠組みの中では不可能というほどでもないけれど、現実的に考えると実現がちょっと難しいと判断しました。「ロシアより愛をこめて」や「大列車作戦」などを参考例に挙げてしまったのが失敗だったかもしれません。
 これら内容面と製作面での二つの課題を克服すべく、第2稿、第3稿と脚本の直しが試みられたのですが、うまくいきませんでした。どれも第1稿の縮小再生産といった感じのものにとどまってしまって、そこから脱することができませんでした。



 
 脚本作りにおいてもっとも難しいと思うのは、最初に書かれたものを生産的に書き直す作業です。一般的に、最初に書かれるものの多くは、イメージや雰囲気で突っ走っているものが多いのですが、そして、そのイメージや雰囲気自体は作品の狙いとして間違っていない場合が多いのですが、ここで見誤ってはいけないのは、イメージや雰囲気というものは、往々にして一般的で使い古されたありきたりな表現に収まりがちだという一つの罠なのです。それに人はイメージや雰囲気といったものに囚われて、そこに安住しがちなものです。イメージを持つことは最初の段階では必要なことだけれど、イメージだけではダメで、次の段階ではそのイメージに新たなコンセプトを導入して新鮮なヴィジョンを立ち上げるクールな客観性を持たなければならない。大事なのは最初のイメージではなくて、しっかりしたコンセプトを持った独自のヴィジョンです。
 脚本の直しでは、最初に書かれたもので構築されてしまったイメージや雰囲気から脱して、客観的に内容を見直し、革新的な変更を行うために、新たなコンセプトを導入する必要があるのです。コンセプトの出所は脚本の内容的な要素に限定されるものではありません。例えば、キャストやロケ場所や美術に関する具体的で面白いアイデアといった演出的、あるいはプロデューサー的な発想などの外的な要因も内容自体に革新的な変更をもたらす新しいコンセプトを呼び込むきっかけになったりします。「INAZUMA 稲妻」の場合は、少ない予算と撮影日数という製作条件そのものが、作品の内容に創造的な変更をもたらすコンセプトを引っ張り出すきっかけの一つになっていることは間違いありません。

 
 片桐の第1稿にはイメージや雰囲気で書かれただけではない独自の表現があったけれど、それをより創造的に進化させるためには、どうしても新しいコンセプトが必要だったのだと思います。そして、そのコンセプトは先ほど説明した内容面と製作面、両面の課題を一挙に解決するものでなければならない。そう考えたときに浮上してきたのが、片桐が書いた「アクション物」としての「チャンバラ」を、「アクション物」とは違うコンセプトで描き直すというアイデアでした。具体的な取っ掛かりとして、プロットでは撮影中の偶然の事故で女が負ったことになっている傷を、実は男優がわざと女の顔を傷つけるためにやったとしたらどうか、というダークな解釈を提案しました。男優の密かな意図に女優が感応して、ダークな情念に取り付かれた男女の倒錯的な果し合いが始まる。元のプロットにも片桐の第1稿にも欠けていたのが、そういうダークな世界観だった。相手を殺すのではなく際限なく続けるしかないエロティックな傷つけあいが、派手な立ち回りでは無いけれども、日本刀を使った男女の激しいドラマとしての「チャンバラ」というヴィジョンとして見えてきました。それによって、脇役の男優の妻や女優の手下である消防士の動きも変わってくるであろうことも見えていました。僕は直感的に大菩薩峠を見ることを片桐に薦めました。片桐はレンタル屋で手に入らなかった大映版の「大菩薩峠」三部作のDVDボックスセットをわざわざ大枚はたいて買って見たそうです。「大菩薩峠」に痺れた片桐は、第1稿から脱して「INAZUMA 稲妻」という新しい世界を切り開いてくれました。
 ところで、「大菩薩峠」と「INAZUMA 稲妻」には直接、内容的に重なるところはなく、あのダークなスピリットが参考になるのではないか、とだけ当時は思っていたのですが、もし「INAZUMA 稲妻」を今のラストシーンからさらに発展させて長編化したら、四人の男女の宿命的な愛憎と流転を描く波乱万丈の物語になって、「大菩薩峠」ばりの面白い映画になるに違いないと、今にして考えています。