『INAZUMA 稲妻』について(大工原正樹)

井川さんへ

(前文略)
ところで昨日、『INAZUMA 稲妻』をついに観ました。
信じられないような綱渡りを見事にやり切っていますね。
映画が始まった瞬間から、何か大変な試みを西山さんはやろうとしているのだ、という気配がビンビンと伝わってきて、鳥肌が立ちっぱなしでした。

つい最近、増村保造曽根崎心中を見直して、この梶芽衣子はやはり凄い、と興奮したばかりだったせいか、スクリーンに映る宮田亜紀の芝居が梶芽衣子にダブってしょうがありませんでした。仇の男を見据えるとき、眉間にしわが寄り自然に首が前に突き出る。普通だったら、なり振り構わぬ必死さだけは伝わっても、決して美しく見せることは困難な姿勢と表情が美しいのですよ、宮田さんも。
短刀を持って動くアクションももちろん素晴らしいのですが、床を這う、男にゆっくりと首を切られる、火照る頬の傷を柱に押し付ける、といったギリギリと軋みが聞こえるような宮田亜紀の動きが目に焼きついて離れないのですね、この映画では。
そうかと思うと、仇の男に馬乗りになって刀を突き立てているシーン。スタッフのマイクがフレームに入り演技が中断されるや否や、キッとマイクを睨みつけるカットがありましたね。そのとき彼女の「ヒュッ」という息遣いが大きく入るのですが、その息遣いの官能性たるやアクション映画の醍醐味としか言いようのないシャープさが傍らにある。
そう、これらは全て西山さんがやっていることなんですよ。
あれは何なんでしょうか、カットが潔いまでに短い。
映画はアクションとしての芝居をカットで繋ぐ、時間もアクションとしてカットで繋ぐ、当たり前のことなんですが、今これが出来るプロの監督を僕はほとんど知りません。こういった才能がそれほど高度でない人でも面白い映画が撮れてしまうところがまた映画の奥深いところなんですが、題材を選ばずこれが自在に出来るのが、僕の知る限り西山さんと、あと常本なんです。
例えばアップの決まり方が、常本の場合はここぞというときのケレンが効いているから、時間が止まることで目に付きやすいのですが、西山さんの場合は性格の慎ましさなのか、それとも厳格さなのか、完璧な画の流れの中でカットをぶつけていくため、ぼんやり観ているとアクションが感情としてしか残らないのですね。
この映画でも余韻をバッサリ切り捨てていくため、返って情念だけがクローズアップされて、やたら泣ける。
泣けるのに、変なことをやっているんですよ、あの人は。
あの筋立てで、あの適役の4人を得て、あの演出技術をもってすれば、それだけで情念をめぐる傑作アクションになるというのに、笑いを入れるのですね。
普通は怖くて出来やしない。
ところがこの笑いが、情念のアクションと共鳴し合っているから鳥肌が立つわけです。
といっても、見ている最中はただひたすら動揺するばかりで、頭がぐるぐるしていたのですが……。

(注意! 以下の記述の中にはネタバレの部分があります)

子分になる消防士は、宮田亜紀に惚れて仕返しに加担するというシリアスな役回りはあるものの、もっぱら思いつめた彼女との対照で笑いを誘う役です。彼の掘った穴に喜劇の定石どおり3回人が落ちる。この3回の見せ方が見事でしたね。
もう一人、男の妻である西山朱子さんは、キャラクターそのものが情念と喜劇を内包している重要な役でした。なまめかしい存在感にぞくぞくしたのですが、家に帰っても、あの奥さんがいたら怖くて絶対に寛げない。あの男が決闘に向かわざるを得ない運命であることが画で分かってしまう。
玄関のカバンをめぐるやり取りが一番可笑しかったのですが、これは演出。誰もがああいう間の芝居をやってみたいのだけれど、頭じゃ分かっていることをあれほど的確に怖く、しかも面白く見せることはなかなか出来ない。男が玄関を出た後、ドアが閉まるまでにあと何個靴が跳ぶのか、それさえサスペンスになっていました。下手をすると、あそこで緊張の糸が切れてしまうような駄目押しをやっているのにそれが必然に見えてしまう。変な人です、西山さんは。
だからでしょうか、神社の階段のシーンでは、すでに決闘でもなくただ傷つけあっている主役二人の恍惚とした表情がついに情念を超えるのだと思います。
まったく、奇跡のような映画です。
最後、男がとも綱をぶった切り、ボートが岸から離れ、二人の決闘が遠ざかっていくところでは、「やり切った!」という感激とともに、本当に涙がこぼれそうになりました。


しかし、これ、いったい何人が目にすることが出来るのですかね。
『INAZUMA 稲妻』を観ずして前後10年の日本映画を語ることなど馬鹿げている、という事態にすらなってしまったと思うのですが。

大工原