『おんなの細道 濡れた海峡』を読む5(井川耕一郎)

 シーン28でボクとカヤ子は寝てしまうのですが、翌日も二人はずるずると旅館の部屋にこもったままです。そうして夜が来て、二人は出前のうどんを食べながら話をします。

34 旅館の一室(夜)
 薄暗い灯の下でボクとカヤ子、出前のうどんを啜る。
ボク「ポロポロっていうのは、パウロパウロって意味なんだ。天なる神の使徒パウロ。そのパウロ様に誓って姦淫は犯しません、盗みは致しません、てぐあいに祈るんだ」
カヤ子「あんたキリスト教?」
ボク「死んだ親父が牧師だった」
カヤ子「牧師? へえ……」
 カヤ子、うどんの汁にむせる程オカしがる。
カヤ子「牧師ねえ」
ボク「俺はオヤジが好きだったね。パウロ様よりオヤジが好きだった」
 ボクはまじめに言う。雨のせいばかりでなく、気持が濡れて、寂しい。
ボク「でも駄目だ。とてもパウロ様には誓えない。ヒトの女は盗むし、姦淫はするし……パウロパウロじゃなくてポロポロだ。……ポロポロ」
 カヤ子も急に暗い眼になる。
カヤ子「ポロポロって、寂しいね。ボロボロより寂しい」
ボク「ウン」
カヤ子「このうどんも寂しいね」
ボク「そうだな」
 カヤ子、不意に体を傾けて、キスする。
カヤ子「このキスも、寂しいね」
 ボク、カヤ子の胸を押える。
ボク「このオッパイも寂しいな」
 カヤ子、ボクの股間に手を入れる。
カヤ子「このオチンチンも寂しいね」
 そして二人、わけもなくオカしくなり、声を立てて笑いだす。
 「寂しい、寂しい」といって、笑い虫にとりつかれたように笑うのである。襖が開く。カヤ子が眼を上げて、しゃっくりみたいに息を引く。ヒラさんが立っている。
ヒラさん「楽しそうだの」


 今までに何度かボクは「ポロポロ」と呟いていますが、その言葉の由来がここでやっと語られることになります。「ポロポロ」という語は田中小実昌の短編『ポロポロ』に出てきますね。実際に田中小実昌の父親は牧師だったそうで、他のいくつかの作品にも父親のことを書いている。それらを読むと、信仰に関してかなり独特な見解を持っていたようです。たとえば、『ビック・ヘッド』という作品集に収録されている『どうでもいいこと』という短編には、末期ガンの父親と出会って信仰に目覚めた医者が出てきます。その医者が有頂天になって信仰の悦びについて語ると、父親はこう言って注意するのです。


「持っちゃいけないよ。だいじな体験として、持っていたいだろうが、それはいけない。また、これは、あんたの宝ともちがう。自分の宝だとおもい、いっしょうけんめい手ばなすまいとがんばっているうちに、宝はなくなって、どこにも見えなくなる。今、あんたの心は燃えている。だが、いつまでも、この火をたやすまい、なんてケチな欲をかくと、火は消えてしまう」「もともと、火をつけたのは、あんたではない。あんたの心が燃えたといっても、燃えしめられたんだ」「あんたが、どうこうするんではない。心を燃えしめる事実に、無限に、絶え間なく臨んでいるんだから、過去の経験としてもつことは、現在、それをこばんでいることになる。持っちゃいけない。ただ、受けなさい」


 要するに、信仰を持続させようという努力の中には信仰の本質を裏切る危機がひそんでいるということでしょうか。ところで、話を『おんなの細道 濡れた海峡』に戻すと、ボクはポロポロの説明をしたあとにこう言います。「でも、駄目だ。とてもパウロ様には誓えない。ヒトの女は盗むし、姦淫はするし……パウロじゃなくてポロポロだ。……ポロポロ」。自分は姦淫をしませんと誓っても、きっと約束を破ってしまうだろう。だから、パウロ様には祈る資格など自分にはないが、それでも、何ものかに呼びかけずにはいられない自分がここにいる。田中陽造が書いたボクのセリフの意味はそんなところでしょう。おそらく、田中小実昌が書く父親なら、それこそが信仰の始まりなのだよ、と答えるかもしれません。
 そのボクのセリフに対して、カヤ子は「ポロポロって、寂しいね。ボロボロより寂しい」と答えます。ボクの「ポロポロ」はパウロ様という意味を失ってはいますが、それでもまだ呼びかけの言葉です。しかし、カヤ子は呼びかけという点を無視して、よく似た響きの「ボロボロ」という擬音と並べてしまう。ということは、カヤ子はボクのことをまるで理解していないということなのでしょうか。
 ところが、そうとも言い切れないのです。「ポロポロ」が誓い抜きの呼びかけだとしたら、それが意味することは、「誰か、今ここにいる自分に気づいてほしい」ということでしかないでしょう。これはずいぶんと寂しい事態です。ですが、「ポロポロって、寂しいね」というカヤ子の返答はボクの言葉をかならずしもはぐらかしているわけではないということになる。
 カヤ子は「ポロポロって、寂しいね」と言ったあと、「ボロボロより寂しい」と続けます。「ポロポロ」と「ボロボロ」のどっちが寂しいかは、ひとによって、そのときの気分によって変わるものでしょう。だから、この点をあれこれ論じても仕方ない。ただ見落としてならないのは、「ポ」と「ボ」という具体的な音の違いにこだわることが、今ここに存在することそのものに目を向けさせるきっかけになっているということです。「ポロポロ」「ボロボロ」と言うことがカヤ子に唇の動きを意識させ、食べることに注意を向けさせる。それで「このうどんも寂しいね」というセリフになる。そして、声を発すること、食べることの他に唇を使うことを探して、「このキスも、寂しいね」と言うことになる。
 このあと、ボクとカヤ子は相手の体が今ここにあることを確認するように触れながら、「このオッパイも寂しいな」「このオチンチンも寂しいな」と言い合います。このあたりが、『おんなの細道 濡れた海峡』というドラマの方向が大きく変わる重要な地点です。ひとの体から離れていったものに着目してみると、それがよく分かります。この地点より前では、島子の抜けた歯はどこか遺骨のようだったし、カヤ子の髪の毛も焼かれて焼場の匂いを放っていました。歯や髪の毛の向こうにうっすら死が透けて見えていたわけです。ところが、この後の展開を見ると、溲瓶に注ぎこまれるボクの小便については、ヒラさんが「あんた、若いから……勢いがいいから」という感想をもらします(シーン36)。また、シーン48では、ボクがツエ子の中に出した精液は彼女が生きていくうえでの希望となります。この死から生への転回は、シーン34でカヤ子が「ポロポロって、寂しいね。ボロボロよりも寂しい」と言ったことによってもたらされたものだと言えるでしょう。
 さて、『おんなの細道 濡れた海峡』の中から田中陽造の工夫を読み取るという点から言うと、ここで読解作業はほぼ終了ということになります。このあとのラストまでの展開は今までの工夫をふまえての残務整理みたいなものです。なので、細かく見ていくことはせず、いくつか重要ポイントを指摘するだけにしておきます。


 その1。
 カヤ子は「遅いわよ。いまごろ戻ってきたって」「どうして怒んないの。自分の女が他の男と寝てるのを見て、どうして怒んないの」と言ってヒラさんをなじったあと、部屋を出てしまいます。そして残されたボクとヒラさんは二人きりで酒を呑むことになる。

(36 もとの部屋)
ヒラさん「よかったか」
ボク「ハ?」
ヒラさん「抱いてみてさ、アイツ、よかったか」
 ヒラさんは、赤く濁った真剣な眼でボクを覗きこむ。
ボク「……よくなかった」
ヒラさん「…………」
ボク「よくなかったです」
 ヒラさん、カーッとなる。大きな拳がとんでくる。ボク、倒れる。四つン這いになって、
ボク「あんた、やっぱり惚れてんだから」
 と言って、襖の方へ這う。
ヒラさん「どこ行くんだ」
ボク「ションベン」
ヒラさん「ションベンならここでしろ」
 ヒラさん、押し入れを開けて、ガラスの容器を引っぱり出す。
ヒラさん「船で使うんだ。酔っ払っちまって便所に立つのが面倒臭いとき都合がいい。ここへしろ」
 ボク、ペニスを溲瓶の口へ入れて放尿する。ちんちろりんと音がする。
ボク「なんか小川のせせらぎみたいだ」
ヒラさん「あんた若いから……勢いがいいから……」
 と今度はヒラさんが替って、する。
ヒラさん「やっぱりな。俺の方が年とっちゃってるから、色が悪いし、……それに濁りが来てる」
ボク「そうでもないです。中々いいションベンです」
 と二人、溲瓶の中で合流し、泡立つのを、なぜかしみじみ眺める。二人分の液体で溢れそうになる溲瓶を捧げるように持ち、ボクは「こぼれちゃう、こぼれちゃう」と立つ。


 こういうときに「よかったか」と訊かれても困りますね。「よかった」と言っても、「よくなかった」と言っても、殴られる。けれども、ヒラさんはボクを殴ったところで仕方がないと感じていたはずです。カヤ子に「……怒れねえんだ。……怒ろうと思ったけど、怒れねえんだ」と言っていることからも分かるように、そもそもカヤ子がボクと寝たのは自分のせいだと思っているから。
 そこでヒラさんは自分が直面している「ヒラさん―カヤ子―ボク」という三角関係の問題を、「ヒラさん―溲瓶―ボク」という別の形式に置き換えることにします。ボクとヒラさんが互いの小便についてコメントしたり、溲瓶の中で混ざり合った小便をしみじみ眺めたりすることは、バカげたことでしょう。しかし、そのバカバカしさはボクもヒラさんも十分に承知していることです。彼らはバカげた儀式を行うことによって三角関係から距離を置いて、自分がどうするかを考えているわけです。


 その2。
 ボクはヒラさんとカヤ子のよりが戻ったのを確認してから、島子のもとへ戻ろうとします。ところが、その途中でボクは自殺したはずのツエ子と再会し、今度はツエ子と寝てしまう。寝たあと、ツエ子はラブホテルで逆立ちをします。そうやって受精を確実なものにしようというのですが、その理由をツエ子は次のように語ります。

(50 室の中)
ツエ子「私ね、一年先には眼が見えなくなっちゃうの」
ボク「…………」
ツエ子バセドウ氏病の一種でね、病菌が眼に来ちゃうんだって。今の医学じゃどうしようもないってお医者さんが言うのよね。それでヤケになってたんだけど……お腹に赤ちゃんが入っちゃえばね、それからオギャーッと生まれてきたら、もうヤケになんかなってられないでしょ。赤ちゃんのためにも生きなきゃいけないでしょ?」
 ボク、うわあっと床の上を転げ回る。
ボク「助けてくれ! 俺のムシは弱虫だから、とてもそんな重荷に耐えられないよ。やめてくれ! 助けてくれ!」
 ツエ子は、身悶えるボクを気味が悪いほど幸福な微笑で見下ろしている。


 普通、ロマンポルノやピンク映画では三人の女優がベッドシーンを演じます。回数は主演が三回、助演の一人が二回、もう一人が一回という感じでしょうか。どのベッドシーンもドラマの中にきちんと組みこまれているのが望ましいのですが、ベッドシーンが一回だけの役に関してはそれがとても難しい。単にベッドシーンの回数をこなすためだけに登場させたというふうになってしまいやすい。しかし、『おんなの細道 濡れた海峡』のツエ子にはドラマがありますね。そういう意味でも、このシナリオは完成度がとても高いと言えます。


(このあと、補足説明(田中陽造の他の作品との関連について)が続きます)