グロヅカ&INAZUMAレポート(飯田佳秀)

ある日、講師である井川さんから突然メールが来た。内容は西山洋市氏の劇場新作である「グロヅカ」に、希望者の中から抽選二名限定で無料招待してくれるというものだった。僕は当然、「行きたい!」と思った。しかし、その招待には条件があったのだ。映画を診た者は「作品がどうすれば面白くなるのか?」考えてレポートにして提出すること、それが条件だった。誰もが思うだろう。「何て嫌な条件なんだ・・・」行きたいような、行きたくないような・・・。僕は迷ったが、まあ、他にも観たい人はいっぱいいるだろうし、抽選は狭き門だろう。駄目で元々、いちおう参加希望としておこう。しかし、僕は見事に抽選に当選してしまった。参加希望した人間は僕を含めて二名しかいなかったのだ。僕は応募しなかった人達をけしからんと思い少し恨んだ。こうして僕は、重い足取りで劇場のある渋谷へと向かい、「グロヅカ」を観た。以下の文章は、そうして提出された僕の「グロヅカ」レポートである。


「グロヅカ」はどうすれば面白くなったのか?
脚本について、まず考えるのが「何故、開かずの間を入れなかったのだろう?」という事でした。解説を読むと「古典的怪談『黒塚』に現代的サイコサスペンスの要素を融合」とある。主人公達は『黒塚』の山伏達に対応する存在であるなら、当然「開かずの間」を期待してしまうと思うんですが、脚本家の村田青氏(原作の久保忠佳氏?)はその要素を投入することに抵抗があったんでしょうか?その理由はなんだったんだろう?と考えてみて思ったのは「鬼女(犯人)を縦横無尽に動かしたい!開かずの間なんてスイッチは必要ない!反則技でもいいからところ構わずアイドル達を襲うのだ!」という物だったのでは?と勝手に想像しました。
しかしこの作品の鬼女は、泥眼の面を着けることによってモンスターではなくなっている。『呪怨』の伽椰子にはなれず、『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスでもない。中身が「人間」である以上、「誰?」という問題と「動機は?」という二つを期待してしまう。そして、このふたつに対する回答も・・・面白いとは思えないのがつらいところでした。伏線というものがあまりないからでしょう。なんたって一番やらなそうな人を犯人に持ってきてるだけですから。他は誰がやってもおかしくないという感じですけど。
じゃあどうすればいいのかというと、僕が思うのは中盤くらいで犯人明かしちゃったほうがまだいいんじゃないかと思いました。もちろん動機もそこで明かしちゃってですね。犯人を縦横無尽に動かすのはそれからでも面白いんじゃないかと。そしたらあの超人的な動きが余計に際立つと思うんです。後はその欲望が向かう先をとことん見せるというか。その時点で主人公と犯人以外は全員殺しちゃって「開かずの間」に入れておけばいいのでは?とすら思いました。
そうすると主演の森下千里さんには犯人に負けない強い性が必要かもしれません。映画の森下千里はどうもキャラが薄く感じました。犯人も三○谷○子じゃいまいち・・・。舞台挨拶を見ていると福井裕佳梨さんは「この人の内面ってどんなんだろう?・・・いや、こういう人が実は結構・・・」と思わせる怖さがありましたけど。(でも彼女が泥眼の面着けてても身長でばれますかね)この映画の脚本にはキャストに均一的に見せ場を作るという配慮が感じられるのですが、それでもその中でもう少し誰かに絞るべきだったと思うのです。全員を活かすのならば犯人なんていらない。疑心暗鬼で互いに滅びあうっていう手もあったと思います。(『レザボアドッグス』みたいになっちゃいますけど)
あとは、せっかく映画を撮っているという設定があるんだからそれをもっと活かすということでしょうか。この映画で、いったい森下千里はどんな作品を撮る気だったのでしょうか?スナッフフィルムを発見して、その場所での合宿を企てようとするのは安藤希だった方がよかったのでは?ビデオと同じ事が起こってしまえばいいなんて欲望を皆の前で吐露するとか。そして一番の標的は福井裕佳梨。僕には安藤希福井裕佳梨の「陰と陽」の対決が一番面白く感じられる・・・。二人に憎悪愛とかあって、その二人が一緒に毛布に包まって校歌歌うシーンとか見てみたいです。そうすると犯人は福井裕佳梨で、過去のスナッフフィルムを作成したのも実は彼女。安藤希でスナッフフィルムの続きを作成したいと考えている。伊藤裕子はそのことに気づいていて、止めようと同行するが途中で気づかれ逆に殺害されてしまう。行方知らずの裕子を捜索しているうちにミイラ取りがミイラになり映画中盤で残されたのは福井裕佳梨安藤希だけ。安藤希が遂に皆の死体を発見すると、そこには福井裕佳梨が微笑んでいる。安藤希が一番「死ねばいい」と思っていた福井裕佳梨は、自分こそが殺人者であること、スナッフフィルムの主演女優には安藤希こそがふさわしいことを告白する。安藤希は彼女の中に自分より深い闇を見る。必死に逃げまとう安藤希。そこにはひきこもりだった頃の面影は微塵も感じられない。対照的に福井裕佳梨はその追っかけこそを楽しんでいる。そして二人ともだんだん疲弊してくる。二人ともボロボロになりながらも追っかけが続く。舞台はもはや山を越え二人は砂漠に辿り着く。福井裕佳梨は遂に安藤希を捕まえる。が、二人とも肉体の限界に倒れる。スナッフフィルムは二人の死で完成される。
以上が僕の考えた『グロヅカ』です。後半は僕の妄想が入っていますが、なんせタイトルも『黒塚』から『グロヅカ』ですから、もっと脚本段階から遊んでいいとは思ったんですよね。(次回作なんて『ナイチンゲーロ』だし・・・)
ああ、でも本当に福井裕佳梨安藤希で校歌歌うシーン見たかったなぁ・・・。

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この恥ずかしいレポートを提出した半年後に、僕は『INAZUMA 稲妻』を見てしまった。(ちなみに『ナイチンゲーロ』はまだ見ていない。DVD化されたら見てみよう)見てしまったからには、その体験について書かないわけにはいかない。『INAZUMA 稲妻』は、僕が『グロヅカ』に感じた欲望を遥かに高いレベルで満たしてくれたからだ。『グロヅカ』レポートの中で福井裕佳梨安藤希で夢想した関係性がそこにはあった。しかし、スクリーンの中でお互いに傷つけ合う男女を見たいという僕のやさぐれた欲望は、この映画の中では、ある代価を強いられることになる。この映画が劇中劇という構成であり、カメラのファインダー越しの映像が挿入される事によって「見られる者」と同時に「見る者」の関係性までが浮上してしまう構造になっているからだ。その関係性には観客である僕も含まれていると感じてしまったことが問題だった。強いられたと言ったら言い過ぎか?劇中のカメラの視線は、主演男優の妻である千華と同じ視線を観客に共有を施すものだ。『グロヅカ』にも撮影者が存在するビデオの視線というものがあったが、あっちが観客に「恐怖」を共有させるものであるなら、『INAZUMA 稲妻』はどうだろうか?僕は千華と「嫉妬」を共有してしまった。主演男優と女優の情念のアクションに対して、素直に没頭することを許してはいない映画だと思う。(それは編集のカット繋ぎにも現れていたはずだ)劇中劇の主演の二人は芝居から逸脱して、互いの肉体に互いの痕跡を残すことにしか興味がない。彼らは自分達が「見られる者」であることを忘れている。女優は言う。「あんたの血が見たい」それをテレビの前で見せられた千華が感じたものは何だったのか?次の場面で「役者なんて・・・辞めてしまえばいいじゃありませんか」と千華は、仕事に出かけようとする夫を初めて引き止めてみせる。夫に「見られる者」であることをやめて欲しかったというわけか?「見られる者」「見る者」の関係性に凶々しさを感じ取り、それを断ち切ろうとしたのか?女優は刀という媒体を通して男優の体に痕跡を残すが、玄関先で出て行こうとする夫の背中に向かって千華は靴を飛び道具として投げつけることしかできない。この映画の中で、彼女は痕跡をなぞることは出来ても、痕跡をつくることは出来ないのだ。この辺で、千華の孤独がこっちの身にまでしみてくる。千華はその後、夫と女優の関係性に割って入ろうとアクションを起こしていく。人質となった千華を媒介として発生したラストの果し合いには、もはや十字を切ったカメラのファインダーは登場しない。あの十字架はカメラのレンズから、千華の眼に完全に移行を完了してしまっているからだ。再び、斬り合いを開始する二人に千華はカットを掛けることができるか?否。カットを掛けたのは夫のほうだった。「見られる者」「見る者」の関係性を文字通り断ち切ってみせる。そういう断絶の場面でも、この映画は観客に対し叙情的になることは許さない。まるでこれからが始まりであるかのように勇壮な音楽が流れ出し、かえって非情さが際立ってくる。夫婦という「永遠」を志向する関係性はこの映画の中で無残な敗北を喫し、「永遠」を放棄した男優と女優だけが勝利を手にする。流されていく子舟から見える丘の上の二人の死闘が遊戯性を帯びて見えてしまったとき、「ああ、かなわないな」と思う。この「かなわない」という感覚は、映画館の暗闇の中で図らずも傑作に出会ってしまい、涙するときの条件と言ってもいい。「うらやましい」と思い「ちくしょう!」と思う。要するに嫉妬か・・・。僕達はいつだって映画に嫉妬している。増村保造の後期傑作「遊び」のラストは、切磋琢磨してきた男女二人が素っ裸で小舟を押して消えていくというものだった。「捕まるよな・・・」と思いながら笑いながら泣いた。さて、千華と火消しを乗せた小舟はどこに向かうだろうか?彼らの命運を祈る。

飯田佳秀:1979年生まれ。福井県出身。8mmでの自主制作を経て映画美学校に入学。
井川耕一郎監督「西みがき」では撮影助手を担当。現在はシナリオ中心に自主制作の未来を模索中。