『寝耳に水』について(非和解検査)

 井川耕一郎『寝耳に水』は、そのタイトルにも拘らず唐突な事件との遭遇を描いたものではない。主人公坂口の後輩・長島の自殺も、その恋人・弘美の死も、唐突に発生するのではなく、そうした事件が“あった”と回想される対象に過ぎない。何より映画自体が、長島の多分に夢/妄想を含んだ回想を、坂口が回想するという複雑な構成を採っている。事物は残像としての、人物は幽霊としての属性を露わにし、時制は曖昧極まりない。その中で、坂口は自殺を前にした長島と過ごした一夜を語ろうとするのだが、それは事件の再現から必然的に逸脱していくであろう。だが、そもそも映画は事件を語ることなど可能なのかという疑問が一方で生じてくる。事件は人物の眼や耳を揺さぶるものであるがゆえに、事件と呼ばれるのではないのか。坂口の(そして長島の)語り口は、事件の再現不能性を再現自体に巻き込むような趣を示していると思える。それを端的に証している場面を、ここでは二つだけ挙げておきたい。


 一つは、長島の耳をクローズアップする場面。井川のコメントによると、この撮影のために六畳間いっぱいの大きさの耳の模型を製作したということなのだが、例えばこの場面を単にカメラを対象に接近させるだけで処理していた場合に比べて、いかなる効果があるだろうか?ここは長島の回想の場面であり、耳を見ているのは長島だと考えられる。そして耳は、事件―――この場合、弘美の死そのものよりも、死の二日前に彼女が漏らした《いたい》と言う二義的な言葉を“耳”にしたという事実―――によって、鋭敏に(=巨大に?)変貌を遂げたのであり、この場面はそのことを示していると言えるだろう。しかし、耳の大きさが実物と模型の間で揺れ動くことは、耳の変貌のみならず話者である―――そして、その耳の所有者でもある―――長島そのものの変貌=小型化をも示す。その結果、長島の肖像はひどく歪んだものになるであろうが、グラス越しの長島の顔を捉えたショットはそれを予感的に表象した物に見えてくる。この顔は一体誰のものなのか?誰がこの場面を見ているのか?



 もう一つは、団地のベランダから布団が落ちる光景を反映している坂口の瞳をクローズアップする場面。ここで布団の落下イメージは新谷尚之の手によるアニメーションで処理されている。もちろん、実際に布団の映った瞳を撮影するのは極めて困難であり、こうした処理を施すのは妥当であるが、ではなぜ実写の映像を加工することをしなかったのだろうか。答えは今や明らかであろう。この場面によって、落下―――長島の自殺を暗示している―――という事件と同時に、それを見つめる坂口の瞳も曖昧化されるのである。そもそも、坂口は長島の自殺を実際に見ていないのであり、事件が事件の記憶を壊乱したような印象が残されるのだ(事態は、その逆かも知れないが)。


 しかし、二つの場面は坂口、そして長島が語る物語自体を揺さぶることはない。虚実入り混じり、錯綜した印象を与えるものの、二人の語る物語は観客に理解可能である。映画の中で登場する奴隷契約書―――ドゥルーズガタリが『千のプラトー』で引用したマゾヒストのプログラムを想起させる―――や、引用されるファーブル昆虫記は、この物語の堅固さを象徴しているように思われる。事件による変貌にも拘らず、物語は完成してしまうのである。それゆえ映画にはシニズムの気配が色濃く漂う。《寝耳に水》という慣用句=物語や、《薪》と《口火》の挿話が忠実に演じられる場面―――後者は、澤田幸弘『暴行!』の極めて印象的なオープニングを想起させる―――は、その代表的なものであり、ここで映画は物語の堅固さを摸倣しているように思える。何よりラストの、坂口が実際には“いつ”語っているのかについてを明かした挿話などは、出鱈目に過ぎる《物語》ではないか。ここに至って井川のシニズムは、ユーモアへと突き抜けているように思える。映画そのものが事件と化すような、貴重な一瞬が到来したように思える。そして、このユーモアもまた物語に還元されるのであろうが、井川は物語を嬉々として反復し続けるであろう。なぜなら《語り》には主体も、対象も無く、したがって終わりもまた有り得ないからだ。そして、それはこの作品自体が執拗に《語り》つくしたことなのでは無いだろうか?