大和屋竺『裏切りの季節』論(非和解検査)

「どこまでこけおどしの芝居をやりやがるんだ」「そこはもう、完全な復讐劇のための舞台裏になっていた」「芝居は終わりだ」・・・『裏切りの季節』には演劇、演じることに関する台詞が散見される。こうした台詞は、その他の大和屋関連の作品―――例えば、今回同時上映の『引き裂かれたブルーフィルム』など―――にもしばしばみられるものであるが、そのとき語られる《演劇》とは一体どんなものなのであろうか。それは例えば、ジャン・ジュネがいう「芝居の芝居、映った影のまた影という〈反映〉」(『ジャン=ジャック・ポーヴェールへの手紙』渡辺守章訳)を志向したものではないだろうか。
 密室の中、視覚と聴覚を閉ざされた眉子に対して、保険屋は長谷川の代わりを演じようとする。保険屋の、解放区に入れ、ギャラは倍額出す、という依頼は、中谷が契約している通信社の社員たちによってふたたび語られる。ヴェトナムで黒人兵が中谷に「ジャップ」と呼びかけたように、中谷は黒人との混血青年・ケンに向かって「黒ん坊野郎」と言い放つ。演じることを通して、本来非対称なものが結び付けられ、反映し合う。こうしたあり方を、《裏切り》と言い替えることが出来るかもしれない。
 ジル・ドゥルーズは『恥辱と栄光―T・E・ロレンス』の中で、ロレンスの資質を端的にこう表現している。「事物に、未来に、そして空にまで、自己自身と他者たちのかなり強烈で、それ固有の生を生きているようなイメージを、つねに手直しされ、繕われ、途中でも巨大化しつづけ、ついには想像を絶する大きさになるイメージを投影しようとするある傾向」(谷昌親訳)。こうした資質は大和屋にも当該する。別の非対称なイメージと重ね合せることでしか、イメージを見ることができない資質。裏切りの意識と切り離しえない幻視の力能。ロレンスがアラブの砂漠でこうした資質を自らに見出したように、大和屋もボルネオの奥地で、井出昭―――その監督作品でモンド・ドキュメンタリー『世界を喰らう』に大和屋はアッシャー・Y・ハンセンの変名で協力していると思われる―――や国岡宣行といった人物と交わるうちに、自身の資質に気付いたのかもしれない。
 互いを裏切る事物と事物の間には、まるで歪んだ鏡が置かれたかのようである。非対称性を孕み、産出する鏡。中谷は眉子に、長谷川が作り出したという奇妙な眉子の鏡像について語る。それは中谷が撮影した顔を欠いた眉子のヌード写真に、当の眉子の顔を貼り付けたものである。この語りによって中谷は、眉子を歪んだ鏡が人物を取り囲む世界に誘い込む。映画の後半、大きく引き伸ばされたヴェトナムの戦場写真を眉子に眺めさせた中谷は叫ぶ。「見ろ、お前が居る!」戦場写真という1枚の歪んだ鏡を通して、ヴェトナムと暗い寝室が非対称なまま通底する。「何とまあ親しみ深い景色なんだろうなあ」中谷は嘆息する。しかし、その瞬間すでに、眉子は《裏切り》を起動させていた。それは自らを歪んだ鏡へと変貌させることによって果たされる。
 眉子は自ら被写体となることを通して、ホテルの一室でヌード写真を撮影するという中谷の行為をケンに反復させる。中谷とケンは、眉子という鏡を介して互いを裏切る。中谷の世界に眉子という鏡が侵入することで、そのパースペクティヴが歪み始める。群衆の中に紛れて長谷川と《似ている》男を探す眉子の身振りを、中谷はいつしか反復してしまうのだ。左手のない男を右手がないはずの長谷川と錯視し、中谷は眉子が仕掛けた裏切りの世界へと引きずり込まれる。そもそも眉子が中谷への復讐劇を起動させるきっかけになったのは、密室での拷問のさなかに片方の耳栓が外れたからではなかったか。この瞬間、眉子は左右非対称な顔を獲得し、歪んだ鏡への変貌を遂げたのである。
 眉子の裏切りを契機に、中谷と長谷川の鏡像関係が浮き彫りになる。長谷川の代わりに眉子を愛する中谷。拷問を受けている際には長谷川の名前を呼んだにも関わらず、中谷の前では中谷の名前を呼んだと告げる眉子。長谷川の写真を獲得し、長谷川の代わりに群衆の前で演説する中谷。そして、長谷川と同様、自らの腕を切り落とす中谷。眉子を蝶番にして、ヴェトナム=過去での時間と、現在での時間が折り重ねられる。過去を逃れようとする中谷の身振りは、すでに過去に長谷川によって演じられていたことが少しずつ浮かび上がってくる。時間は単調に流れているわけではない。異なる方向に流れる時間と重ね合わせられ、裏切り合う。それが他の多くの大和屋作品にも共通してみられる時間のあり方である。《裏切りの季節》とは、こうした時間の様態の謂いであろう。その時間の果てに、腕を欠いた中谷は、やはり腕を欠いた長谷川と対面する。ドライアイスによって冷凍保存され、ヴェトナムから空輸された長谷川の死体である。そして時間の最初に長谷川が撃たれたように、中谷も撃たれる。始まりと終わりが重なり合い、時間が停止する。しかし、まさにその瞬間に風に吹かれた傘が動き出す。中谷を仕留め、長谷川の死体を積み込んだ車が猛スピードで走り去る際に生じた風だ。車の速度と傘の速度のずれ。動く傘と不動の中谷のずれ。ふたたび《裏切りの季節》が起動し始める。
 映画のラスト、寝室に一人残された眉子の裸体が映し出される。眉子に光を当てている照明の位置が変化し、その陰影が瞬間的に変化する。1個の肉体の上で、2つのイメージが重ね合わされる。そこへケンがギター伴奏で歌う豊後浄瑠璃が流れる。そして、その歌もやがて別の豊後浄瑠璃に変貌していく・・・


(この批評は、昨年七月のシネマアートン下北沢大和屋竺作品集」のトークショー大久保賢一・井川耕一郎)のときに配布された資料からの再録です)