風と家と唇―大工原正樹『風俗の穴場』について―その3の2(井川耕一郎)

(3)ずれていく対立関係
・さらに続きを見てみよう。チャコのチャコらしくない、冷静さを欠いた発言に真っ先に反応したのは、突然、庭に姿を現したユカだった(こうした思いがけないところからの登場はマンションという設定ではできなかったことだ)。「あんた、何なのよ? 親が商社マンで海外赴任だか何だか知らないけど、こんな一軒家に住んで、みんなにちやほやされて。マンガ描きたいから在宅ヘルス? おまけに、あたしたちの声まで代弁してくれちゃってさ。あんたみたいに恵まれた子が、調子よくこの仕事をやってるのが許せないのよ」。
・こうしてドラマを動かす対立は、「チャコ―勝呂」から「チャコ―ユカ」へと移行する。ユカにしてみれば、チャコとの対決は前から望んでいたものだろう。しかし、対立関係がどんどんずれていったため、当初は対立の当事者であったみちる、勝呂、和田の三人がドラマの外に放り出されてしまうという事態が、気がつくと生じている(特に、ユカとチャコの対立にどう介入していいか分からず、途方に暮れた顔でうちわをあおぐ和田役の高杉航大の演技がユーモラスだ)。
・それでも、ユカはチャコとの対決を続けるために、みちるに向かって言う。「みちる、だまされちゃダメよ。チャコはあたしたちとはちがう人間なんだから」。彼女は対立の争点を「みちるの味方はユカか、チャコか」に変えようとする。だが、みちるにとって、問題なのは父親との関係であって、「ユカか、チャコか」ではない。どう答えていいのか困っているみちるを見ているうち、ユカはいらいらしてくる。「和田さん、もう帰ろうよ」。ユカは和田を連れてその場を去ろうとする。


(4)凪の状態
・だが、ユカと一緒に帰ってしまっては和田の立場がない。「ヤクザはな、一度広げた風呂敷をそう簡単にはしまえないんだよ」。和田はユカに向かって暴力をふるいだす。すると、玄関で気絶していたはずの大石が、扇風機を和田の脳天めがけて振り下ろし、倒す。大石にしてみれば、扇風機での一撃は和田に対する仕返しの意味もあったのだろうが、そのわりに彼の行動はとても冷静だ。まずは扇風機のコンセントをきちんと抜いてから、静かに和田の後ろに回って殴るのである。こうした一連の芝居は、大石がケンカ慣れした元暴走族であることをさりげなく表現していてうまいと思う。
・ところで、大石が扇風機を殴る道具として使ったために、チャコの家の中はふいに凪の状態に入ってしまう。風がとだえてしまった中、チャコはユカに向かって本当のことを語りだす。「ユカ、わたし、親のいない子なの。中学のときに両親が交通事故が亡くなって、この家が親が遺してくれた唯一の遺産」。ユカは、どうしてウソをついてたのよ、と尋ねるが、チャコはもうこれ以上、風のないところにいることはできない。大きく伸びをすると、「何だか肩がこっちゃった。ちょっと散歩してくる」と言って、家を出てしまう。


 そして、ここから先は、脚本家が書いた初稿にはまったくなかったドラマとなる。
 チャコの告白を聞いた大石は、親密になることばかりを求めて、彼女のことを本気で知ろうともしなかった自分の愚かさに気づく。どこかしら風を連想させるチャコのたたずまいは、家族を失った悲しみやたった一人で生きていくつらさを乗り越えるために、彼女が時間をかけてあみだした方法だったのだ。彼はチャコを探すために家の外に出る。
 チャコは公園の中を歩いていた。大石が近づこうとすると、チャコは言う。「ストップ。何しに来た?」。その問に大石は「あんたにキスしにきた」と答え、手を伸ばし、そっと指先で彼女の唇に触れる。このとき、大石の中でわきおこっているものは、単純な性的欲望でもなければ、性的欲望ぬきで親密さだけを求める気持ちでもない。今まで彼が感じたことがなかったもの――目の前にいる女性が愛しいという感情だ。
 大石はキスしようとするが、チャコに「ダメ」と拒絶される。「唇にキスするのは好きになったひとだけと決めているの。そうして、今のところ、ひとを好きになる予定はない……」。このセリフに大石も観客である私たちもはっとする。相手をまっすぐに見つめるときのきりっと結んだ口もとが印象的だったため(そういう意味で、ビデオのパッケージの写真はチャコを演じる石川萌の魅力をまったく伝えていない)、チャコの唇が商売道具であったことを私たちは忘れてしまっていたのである。
 チャコはさらに言葉を続ける。「いつかこの仕事をやめるときが来たら、ひとを好きになるつもり。でも、わたしの仕事のことを知っているひとじゃイヤなの。だから、あなたじゃ、ダメなの。大石さんはかまわないって言うかもしれないけど、わたしがバランスがとれなくなっちゃう」。
 それから、チャコは木にもたれかかると、遠い目をする。「今のわたし、結構必死でバランスをとってるの。心と、体と、大勢の男と、そしてマンガと。風俗嬢はバランスが大事なの……」。まるで彼女は未来の恋人に向かって今の自分のことを伝えようとしているかのようだ。しかし、未来の恋人の条件は、チャコの過去をまったく知らないことではなかったろうか。彼女の過去を知ってはならない相手に、過去を語りかけようとする矛盾。大石を前にしてチャコの心がゆれ動きだしている様子を大工原は繊細に演出している。
 すると、今度は大石が口を開く。「おれ、営業の仕事やってて、いつもお客に説得されちゃうんだ。ああ、このお客が言うことはもっともだなって引き下がっちゃう。でも、ここらへんで、あきらめがいいのは直そうと思ってる」。このあたりの長岡尚彦の芝居は素晴らしい。元暴走族という設定の人物だと、ふとしたはずみに凶暴になるというふうに演じてしまいがちだが、長岡尚彦はちがう。彼の演技は、暴走族を卒業してからの年月の長さを感じさせる。ちょっと照れたような口調や仕草の中に、社会に出てからの苦労がにじみでていて、そこが文句なしにいいのだ。
 さて、恋をそう簡単にはあきらめないという大石に対して、チャコが提案したのはある勝負だった。チャコがフェラチオしている間に、大石はセールストークを最後まで言うことができるかどうか(この勝負は二人が出会ったときにも行われたものだ)。大石はチャコの提案を受け入れ、マニュアルどおりのセールストークをしゃべりだす。チャコも大石のペニスを口に含む――すると、彼女の背後で風がよみがえり、木々の緑がざわめきだす。
 勝負は当然のようにチャコの勝ちであった。しかし、重要なのはここからなのだ。チャコは家に戻る前に、大石の唇にキスして微笑むのである。大石はふいにキスをされて呆然となるが、その後、精液を口移しで流しこまれたことに気づき、あわてて口をぬぐう……。このちょっとしたいたずらのようにも見えるチャコの一連の行為は何を意味しているのか。彼女は大石にキスをすることで、彼の愛を受け入れる可能性があることを示した。しかし、精液を口の中に流しこむことで、二人がこれから乗り越えなければいけない大きな困難があることも同時に示したのだ。


 西山洋市『大工原正樹の『未亡人誘惑下宿』から演出のコンセプトを掘り返す』の中で大工原の演出についてこう書いている。「大工原の技術的な確かさは、演出者としての厳しい、あるいはまっとうな現実認識に裏打ちされているということをまず見なければならないと思う」。これと同じことが、『風俗の穴場』にも言えるだろう。
 『風俗の穴場』は、登場人物たちのその後の姿をコミカルに描いて終わる。チャコの家には、ユカや店長たちもやって来て、本店のようなにぎわいを見せる。大石も順番待ちの客を相手に大忙しだ。一方、本店はというと、客がまったくいない。そして、チャコはマンガを描くのに疲れたのか、本店の個室のベッドで眠っている。このとき、彼女が見ている夢は、草原をたった一人でどこまでも歩いていく姿だ。要するに、チャコにはまだ大石と二人で歩く夢を見ることすらできないのである。
 だが、ここまで作品を見てきた私たちは、将来、チャコと大石が結ばれることを願わずにはいられないだろう。ひょっとしたら、二人にハッピーエンドが訪れることを約束するような徴が作品のどこかにあるのではないだろうか……。こうして私たちはテープを巻き戻し、もう一度、最初から『風俗の穴場』を見直そうと思ってしまうのである。