風と家と唇―大工原正樹『風俗の穴場』について―その3の1(井川耕一郎)

 事件は立て続けに起こった。縁側にひっそりと腰かけて順番待ちをしていた客――彼は、チャコの家でヘルス嬢としてまた働くようになったみちるの父・勝呂であった。洋室に入ってきた勝呂を見て、みちるは部屋を飛び出し、トイレに閉じこもってしまう。一体、どうなってしまうのだろう、とチャコたちが様子をうかがっていたちょうどそのとき、玄関の戸を乱暴に開ける音がする。大石が玄関に行くと、そこにいたのはヤクザの和田(高杉航大)だった。「お前は何者だ?」「おれはこの家の用心棒みたいなものだけど」。すると、いきなり和田は大石のみぞおちに一発食らわせ、家の中に入っていく。
 事件が続けて起きたのは偶然ではなかった。すべては、チャコをライバル視するヘルス嬢・ユカ(児島巳佳)が仕組んだことだった。彼女は勝呂に、みちるが実の娘で、今、チャコの家で働いていることを教え、なじみの客である和田には、チャコを脅かすように頼んだのだ。
 こうしてチャコの家は大きな危機に直面することになるのだが、このシーンについて常本琢招は『大工原正樹――「大きな男」』の中で大工原の演出の特徴がもっともよく出ていると記したうえで、次のように書いている。「7人の登場人物たちが、およそ14分に及ぶ2つの芝居を同時に行い、あるときはハラハラさせ、あるときはジーンと泣かせる……という難易度の高い演出を、大工原は一度の移動も使わず、何人かの登場人物をフレームに納め続ける固定画面の連続で、やすやすと成し遂げてしまうのだ」。
 この常本の指摘は重要である。たしかに大工原は派手な映像テクニックに頼ることなく、十四分に及ぶ長い芝居を良質の娯楽として見せきっている。ということは、たぶん、役者の芝居のあり方に工夫があるはずなのだ。だが、一回見たくらいでは、このシーンは登場人物たちが和室に集まって、単に座ったままセリフをやりとりしているだけにしか見えない。一体、このシーンでの大工原の工夫とはどのようなものなのか。もう一度、このシーンを見直しながら、気がついたことを列記してみるとしよう。


(1)暴力の連鎖
・ヤクザの和田は大石を一発殴ってから、家の中にあがりこむが、以後、そう簡単に暴力をふるうことはない。彼の目的はチャコを脅すことだ。「誰に断って店を開いてんだ。ここはうちのシマ内なんだけどな」。そう言いながら、和田は座卓の上に置いてあったうちわを手にすると、せわしなくあおぐ。そのうちわの乱暴なあおぎ方が直接的な暴力よりも効果的だ、と和田は考えている。
・だが、チャコはそんな和田にひるむことなく、彼の間近に座り、まっすぐに相手を見つめる。そこで、和田は別の脅し方を考えなくてはならなくなる。ちょうどそのとき、トイレから和室に逃げてきたみちるを追って勝呂が現れる。勝呂とみちるの様子を見た和田は「ほらほら、こういう客とのトラブルを解決するプロフェッショナルが必要なわけだ」とわざとおどけた口調で言う。すると、勝呂から「うるさいな。あんたみたいなチンピラを見ると、へどが出る」と吐き捨てるように言われる。和田はすかさず勝呂の顔を殴る。だが、これは和田が思わずカッとなったからではない。和田はチャコを脅すために、暴力をふるってもかまわない適当な人物を探していたのである。
・和田の暴力はそれを見るチャコへの効果を狙ってのものだった。しかし、暴力は思いがけない影響をひとに及ぼす。和田に殴られた父親を見て、みちるはそっとハンカチを差し出す。ところが、勝呂はハンカチを受け取らずに、娘の頬をぶってしまうのだ。「お前は恥ずかしくないのか! こんなハレンチな仕事をして、こんな連中とつきあって」。このシーンは基本的に座ったままの芝居なのだが、こうした予想外の暴力の連鎖が緊張感をもたらしていると言える。


(2)チャコの危機
・勝呂がみちるの頬をぶつところまでのドラマを動かしている対立は、「チャコ―和田」、「みちる―勝呂」の二つであった。しかし、チャコが勝呂に向かって、自分が娘にやったことを棚に上げて、みちるばかりを責めるのはおかしい、と言うことによって、対立は「チャコ―勝呂」に移行する。
・勝呂は言う。「この子は私が父親と知っていながら、私の指名をずっと受けていたんだ。この子は心が壊れてしまっているんだ……」。それに対して、チャコはすかさずこう言い返す。「ヘルス嬢は、毎日、初めてのおちんちんを相手にしている商売なの。普通の感情じゃ、やっていけないの。始めたきっかけはひとさまざまなだけど、できるから……できちゃうから、やっちゃうの。普通のひとの感情を押しつけないでよ!」。このチャコのセリフには、おや?と思ってしまう。それまでのチャコとちがって、高ぶった感情に突き動かされて喋っている感じがするのだ。
・いつものチャコなら、こういう場合にどう行動するだろうか。おそらく、チャコは勝呂の様子をじっと見つめ続けるだろう。そして、彼が「この子は心が壊れてしまっているんだ……」と言って、それ以上言葉が続かなくなったところで、立ち上がって座卓の向こうにいる彼のそばに座るはずだ。そして、同じセリフを静かに語りかけ、ヘルス嬢の仕事の大変さを伝えようとするだろう。うつむき、汗をぬぐう勝呂に向かってうちわで風を送りながら……。
・だが、チャコはうちわを和田に奪われてしまっている。そのために、彼女はいつものように風を味方につけて行動することができないのだ。要するに、このシーンで、チャコは自分のあり様を崩されるような危機に陥っているのである。