『のぞき屋稼業・恥辱の盗撮』で描かれなかった顔についてみんなに聞きたい(西山洋市)

 これは、変質的な盗撮魔の生態を描くエロ映画、ではない。探偵映画だ。主人公の探偵は、浮気調査のために尾行などをする自分の仕事を卑下して「のぞき屋」だと言っている。それに、彼はかつて実際に本格的な「のぞき」をやっていたらしく、その頃の盗み撮りや盗聴の技術を現在の探偵の仕事に生かしているようだ。とにかく、探偵としての彼は「しがない」。そして「孤独」だ。なおかつ「やるせない」のだ。つまり、彼は古典的かつ正統派のハードボイルドの探偵なのであり、この映画はそういう探偵物語なのである。
 この映画の冒頭は、顔の分からない何者かがベッドに縛られた裸の女を毒薬注射で殺す場面だ。この犯人が通称「毒針」と呼ばれる連続殺人鬼であることは後で分かるのだが、この冒頭の殺しの場面で犯人の顔を写さないのは、ただ単に「犯人は誰か?」という謎で観客の興味を惹くためという以上の、この映画の本質に関わる重要なポイントだと考える。実際、この映画には、冒頭で犯人の顔を伏せておく物語上の必要は実はないのだ。
 一方、主人公の探偵・青井は、ピアノ教室に通っている小さな男の子から、ピアノの教師である「理恵先生」を守って欲しいという依頼を受ける。ここから、連続女性殺人犯「毒針」の正体が青井探偵と観客に明らかにされるまでの展開は速い。むしろ、あっけなく犯人は明かされる。つまり、この映画の眼目は「犯人探し」にあるのではなく、犯人の犯行の動機となり同時に彼を破滅へと導く危険な近親関係のドラマと、それに関わることで探偵青井が蒙った深い痛手を描くことにあった。
 青井が蒙った痛手は、癒しようのないものである。青井は自分が取った行動のために、犯人に友人を殺させてしまった。その後悔と憎しみは、犯人を殺しでもしなければ晴らされるものでないことは青井自身が一番良く知っていた。しかも、自分が犯人を殺さないということを、青井は(そして犯人も)ハッキリと自覚しているように見える。何故だろうか? 殺人を犯せば身の破滅に繋がるから、だろうか? そうではないだろう。青井は、犯人を殺すことで復讐心を満足させること、ではなく、むしろ、それを満足させないまま、その不全感を抱えたまま生きることを選択したのだ。それは、犯人が選んだ生き方とは、正反対のものだ。犯人は、自身の肉体と恋愛の欲望の二重の不全感を、猟奇殺人によって満足させようとした。その分かりやすいが図式的な生き方と、そうではない青井の逆に屈折した生き方、その二つを並行的に描くことが、この映画の作者たちの中心的な狙いだったのだと思う。そうでなければ、犯人が破滅するクライマックスのシーンでこの映画を終わらせてもいいわけである。ところが、映画は続く。それは、青井の人生と生活が続くからである。この映画の主人公は、たとえどんなに地味だろうと探偵の青井だ。しがなく、孤独で、やるせない青井を演じた中倉健太郎は地味に見えていい役者だと思う。
 この映画には、「毒針」による殺しのシーンが二つある。一つは冒頭の女殺し、もう一つは中盤で青井の友人を青井と誤って殺害するシーン。そのどちらでも犯人の顔は描かれていない。この映画の眼目が「犯人探し」でない以上、どちらのシーンでも犯人の顔を伏せる物語上の必要はない。特に友人殺しの時点では犯人はとっくに明らかにされている。にもかかわらず犯人の顔を描かなかったのは何故だろう? 犯人の殺しの真っ最中の顔、毒針を被害者の腕に突き立てているまさにその時の顔は、むしろ、猟奇殺人を扱った物語上是非とも必要なものではなかっただろうか? 特に友人を殺された青井の憎しみと復讐心を観客の中にもエモーショナルにかきたてる効果の上で。だが、おそらく、青井本人も我々観客と一緒にその顔を見るのでなければ、その顔はドラマ上、意味を持たないのかもしれない。青井は、夢の中では犯行中の犯人の顔を見ている。襲われているのは、実際には殺されていない犯人の姪だ。青井が見たのはその顔だけだ。青井は、我々観客同様、連続猟奇殺人鬼としての犯人の真の顔を知らない。こうして、青井の犯人に対する憎しみと復讐心の屈折した不全感は、犯行現場での犯人の顔を見ていない(見せられていない)我々観客の屈折した不全感とダブってくることになる。そのように演出されていたのだった。それは一人称で語られる古典的ハードボイルド探偵物の行き方の踏襲でもあるのだろうか?
 だが、犯人は、その時、どんな顔をしていたのか、やはり気になる。もし撮っていたとしたら、堀内正美はどんな顔を見せてくれただろうか? いや、僕だったら、その顔を撮ってしまったかもしれない。