沖島勲ノート(2)−2(井川耕一郎)

 一九八九年に沖島勲が撮った二作目の監督作品『出張』は、落石事故で鉄道が不通になるところから始まる。地方の支社に行くはずだった熊井(石橋蓮司)は、途中の駅で足止めを食うことになるが、これは漂流の始まりでもあった。鉄道が復旧するのを待つため、熊井は山奥の温泉に行く。そして、翌朝、山道を歩いていると、ゲリラに出くわし、彼らのキャンプ地に漂着してしまう。
 『出張』には見る者を微笑ませるところがあるが、それは熊井とゲリラたちの関係から来るものだろう。林の中から若いゲリラに、こっちへ来い、と手招きされて、思わず、俺?と自分を指さし、のこのこ着いていく態度といい、山奥で展開するゲリラと機動隊の銃撃戦を見て、「国家権力の、壊滅?……そりゃー、面白そうだ。ちょっと、見て行こう――」と言うなり、その場に腰をおろしてしまう態度といい、熊井にはまるでアホウドリのように警戒心というものが欠如している。
 それに、ゲリラたちの方も実にのんびりとしたものだ。ゲリラの隊長(原田芳雄)は熊井に、あなたを人質にして身代金の交渉をします、と宣言したすぐあとに、山奥に潜伏する前に毎朝欠かさずに見ていた連続TVドラマの結末を知らないか、と尋ねてくる始末である。また、古参兵のゲリラ(吉沢健)は熊井に、お父さん、と呼びかけて、たき火にあたるようにすすめる。この古参兵と熊井はどちらも痔のせいで座っているのがつらく、たき火に背を向けて尻をあたためるようにして並んで立ち話をするのだが、その姿にはしみじみとしたものが感じられる。
 このとき、「ところで、下界の方は、どうかね。景気、よいかね」と古参兵は熊井に尋ねる。「下界」という言葉がすんなりと出てきてしまうあたりに、ゲリラと熊井がどんな関係にあるのかがよくあらわれていると言ってよいだろう。熊井にとって、ゲリラのキャンプ地は天国であり、ゲリラたちは遠い昔に別れ別れになってしまった友人なのだ。だから、山奥のキャンプ地が熊井をほっとさせる懐かしい場所であってもおかしくはない。
 しかし、だとしたら、どうにも気になってしまうのは、身代金の交渉がまとまったあとに次のようなシーンが来ることだ。

副隊長「熊井さん!」
  熊井、トボトボと、副隊長の方へ行く。
  副隊長、熊井を促して、歩きながら、小声で話す。
副隊長「一応、交渉が成立して、これから、現金を受け取ることになりました。あなたが、人質で居る限り、現金は、無事に、受け取ることが、出来るでしょう。……金を、受け取り次第、あなたは、釈放します。ただ……」
  副隊長は、ますます声をひそめて、熊井を、人気の無い方へ、連れて行く。
副隊長「ただ……今度の交渉の中で、奥さんの方に、どうも、あなたが、何等かの理由で死亡して、保険金を狙っていた様な節が、あるんです」
熊井「(驚いて)女房が?!」
副隊長「これは、あくまで、推測ですが。……私共は、決して、あなたの命を狙うとか、そんな事はしません。……ただ、家へ着かれる迄、どんな形であれ、命を落とされることのない様、くれぐれも、気を付けて下さい。それが、如何に、事故の様な、体裁を、とっていたとしてもです」
 熊井、恐怖に、脅える様な表情。
 副隊長“分りましたね”と、念を押して、行ってしまう。


 副隊長(志賀圭二郎)は熊井に何を言おうとしたのか。熊井の妻から依頼を受けた何者かが熊井を殺そうと狙っているのかもしれない、と言いたかったのだろうか。だが、結局、帰り道では何も起きなかった。ということは、副隊長の注意は無意味だったのだろうか。
 DVDで『出張』をひさしぶりに見直して気になったことがある。熊井はゲリラから解放され、たった一人で家に戻る。そのときの疲れきった姿が、一九九三年に沖島佐伯俊道のシナリオを改稿して完成させた『紅蓮華』(監督:渡辺護)に登場する役所広司演じる健造の姿とどこかだぶって見えてくるのである。『紅蓮華』の健造は映画の後半で心を病み、何度も自殺しようとするのだが、たとえば、次のようなシーンの健造の姿には『出張』の熊井を思い出させるものがあるように思える。

  夜は、段々、明けて来て、時計の針は、六時半を回っている。
  居ても立っても、いられないさくら。
  その時、玄関の方で物音がする。
さくら「……!!」
  ギクッと、立ち上がり、玄関の方へ、飛んで行く。
  戸が開いて、幽鬼の様な健造が、立っている。
健造「(ボソッと)いい、死に場所が、無かった」
  さくら、健造に取り縋ろうとして、よろける。
健造「少し、寝る」
  健造、二階へ登って行く。


 『出張』の主人公・熊井の中には、本当は自殺への衝動が潜んでいるのではないだろうか。彼は古参兵のゲリラの前でこう言っている。「毎朝、起きると、必ず、思うんですよ。“これでいいのか……”って。……それを、毎日、毎日、何年も、何年も、繰り返している中にうつ病のようになってしまって……」。しかし、これは誰もがついつい口にしてしまうありふれた愚痴にすぎないだろう。熊井の中に自殺衝動があると強く感じられるのは、古参兵に下界の話を求められたときに、当時、現在進行形だったバブル経済について説明し、続けてこう言ってしまうときなのである。

熊井「(薄く、笑って)まァー、あなた方を前にして、こんなことを言うのは、何だか……私は、こんな状況が、このまま続けば、放っといても、何か、考えられない様な、珍けな革命が……革命というのか、騒動というのか、今迄の常識では、考えられない様な、コミックな騒動が起きるんじゃないか、と思っています(笑って)これは、見物ですよ。私は期待しているんです」


 熊井の無意識は、「珍けな革命」や「コミックな騒動」といった言葉によって自殺衝動があることをほのめかしているように見える。それに、「これは、見物ですよ。私は期待しているんです」というときの(笑って)には、ちょっと恐いところがある。
 だとしたら、こうは考えられないだろうか。熊井の妻は、夫の普段の言動から、彼の中に自殺に向かう傾向があることをうっすらと感じ取っていた。そして、ゲリラの副隊長は、交渉中に熊井の妻のちょっとした言葉使いにひっかかりを感じて、彼女が夫から感じ取ったものを読み取ろうとした。こうなると、まるで伝言ゲームだ。熊井、妻、副隊長と伝わっていくうちに、メッセージは「妻は熊井の死を望んでいる」というふうに書き変えられてしまったのである。
 ひょっとしたら、この仮説は突飛なものに見えるかもしれない。しかし、熊井の中に自殺衝動がひそんでいると考えれば、なるほど、そういうことか、と思える箇所があるのも事実なのである。
 映画の前半で、熊井は山奥の温泉宿で晩飯を食べたあと、外に出かける。そして、飲み屋に入り、酔った勢いで店の二人の女(たかちゃんとみっちゃん)とセックスしてしまう。この挿話について沖島はDVDに収録された福間健二との対談の中でおよそこんなことを言っている。ゲリラとの遭遇という白昼夢のような出来事に観客を巻きこんでいくためには、その前に踏み台となるような挿話が必要だった。それが、なぜか二人の女性と寝てしまったという挿話なのだ、と。
 これは熊井寄りの立場に立ったドラマの理解の仕方としては分かりやすいものだ。では、逆に飲み屋の女たち寄りの立場から見たドラマはどうなるのか。これに関連して、封切りで見たときから、あれは何だったのだろう、とずっと気になっていたことがある。それは女たちの目――店内でみっちゃんのお尻を撫でながら踊っている熊井を見つめるときのたかちゃん(亜湖)の目であり、熊井とたかちゃんのセックスを部屋のすみで膝をかかえて見つめているときのみっちゃん(松井千佳)の目である。二人の女たちが熊井を見るときの妙に冷めた目は何を意味するのか。
 このことは熊井に自殺衝動があると考えれば、そういうことだったのか、と了解できるものだ。つまり、たかちゃんとみっちゃんはこう考えたにちがいないのである――この男はもうじき死ぬ。それで最期にはめをはずしたがっているのだ。だったら、寝ても大丈夫だろう。じきに死ぬ男なのだから、あとでしつこくつきまとったりはしない……。
 ゲリラの副隊長の注意は的はずれなものだったかもしれないが、その注意があったために、熊井は事故死とも自殺ともつかない死を回避して帰還することができた。二人の女たちの予測ははずれてしまったわけである。とは言え、無事に帰還できたことは、熊井にとってかならずしもうれしいことだったわけではない。ゲリラに身代金を払うために借りた一千万円をこれからせっせと返済しなくてはいけないし、妻の玲子(松尾嘉代)は会社の部長とできているようにも見える。本当のことを言ってしまえば、熊井は死んでしまった方が楽なのである。
 映画のラストで、熊井はまたしても出張を命じられる。走る列車の窓から外を見ると、ゲリラたちが戦っている山で爆発が起きている。「オーイ! 頑張れよーッ!!」と熊井は窓から身を乗り出して叫ぶ。彼は自分が何とか死なずに生きていることをゲリラに伝えたいのだ。だが、山は遠くにあって、熊井の声など届くはずもないのである。