『演出実習2007』製作ノート(3)(井川耕一郎)


4.『演出実習2007』

 『演出実習2007』の製作は、研究科のゼミで、授業を記録したビデオを分析するところから始まった。
 どういう形にまとめるかを考えるときに参考になったのは、小出豊くん(3期初等科・6期高等科)がつくった『演出実習2008』だった。
 11期初等科での大工原正樹の授業を小出くんが撮影・編集した作品を見て、私は『演出実習2007』を以下のような方針でまとめようと思ったのだった。


(1)授業の記録映像は、講師の作家性を知る手がかりになるかもしれないが、『演出実習2007』をつくる狙いの中に、作家性の解明も含めてしまうのはちょっとちがうだろう。『演出実習2007』は、演出とはどのような作業なのかを考えるビデオでなくてはいけない。そうすれば、小出くんがつくった『演出実習2008』を見るときの助けにもなるはずだ。『演出実習2007』と『演出実習2008』はセットにした方がいい。
(2)『演出実習2007』は、『演出実習2008』よりも教材ビデオらしいつくりにすべきだろう。各篇の長さは60分とする。まずは45分の授業ダイジェスト。ここでは、講師の演出作業がどのような段階から成り立っているか、各段階にどれくらい時間がかかっているかが分かるようにする。そして、最後に15分の講師インタビューをつける。
(3)『演出実習2008』は、演出の手順を教えるマニュアルになっていないところがいい。『演出実習2007』も同じ方針でつくるべきだろう。


 『演出実習2007』をまとめる作業は2008年の秋から始めた。
 残念なのは、塩田さんから授業の記録映像の使用許可がもらえなかったことだ。
 10期初等科の授業での自分の演出は失敗しているので、かんべんしてほしい、とのことだった。
 気持ちは分かるけれども、分析する価値のある失敗だったこともたしかなのだ。
 塩田明彦の授業の記録映像を使った「リハーサル・試行錯誤篇」があれば、演出マニュアルではなく、演出について考えるビデオをつくるという私たちの狙いがよりはっきり打ち出せたように思う。このことは今でも残念でならない。


 編集は2期の北岡稔美さんにお願いした(彼女は、私の『寝耳に水』の製作、『伊藤大輔』『西みがき』などの編集も担当している)。
 授業の記録映像を全部見た北岡さんは、演出作業の分節化がしやすいものから編集していきたい、と言って、万田邦敏西山洋市、井川の順に授業ダイジェストをつくることを提案した。
 というわけで、『演出実習2007』は、「撮影現場・段取り篇」、「ホン読み篇」、「リハーサル篇」という順番でつくられている。


 「撮影現場・段取り篇」の授業ダイジェストの編集がもうじき終わるという頃、北岡さんから、講師インタビューをやるときには、現役の映画美学校生にも参加してもらった方がいいのではないか、という提案があった。
 誰がいいだろう?と尋ねると、11期の冨永圭祐くんという答がすぐかえってきた。私も賛成だった。冨永くんなら、きちんと関連資料に目をとおし、彼なりの問題意識をもってインタビューをしてくれるにちがいない。


 万田さんにインタビューしたあとに思ったのは、冨永くんに頼んで正解だったな、ということだ。
 私も万田さんに質問しているのだが、万田さんの答はどうしても、このくらい言えば、分かるでしょう、というような簡単なものになってしまう。
 冨永くんの質問に対する答の方が、丁寧に分かりやすく語っている感じなのだ。
 なので、西山洋市インタビューからは冨永くんに基本的におまかせという形にして、北岡さんに補足的な質問をしてもらうようにした。


5.演出とは監督の頭の中にあるイメージの再現ではない

「事前に芝居についてどれくらい考えているのですか?」
 万田さんへのインタビューはこう尋ねるところから始まっているけれども、この問の中には、『演出実習2007』の基調となる考えが含まれていると思う。
 それは、演出とは監督の頭の中にあるイメージの再現ではない、ということだ。
 映画批評やインタビューなどから、私たちは「映画監督は映画の作者である」というメッセージを受け取る。
 けれども、困ってしまうのは、そのメッセージが「映画監督は映画の唯一の作者である」というふうに変質しやすいということだ。
 こうして、「演出とは監督の頭の中にあるイメージを再現する作業である」という思いこみが生まれるのである(注5)。
 実際、こうした思いこみに囚われていると、演出実習の記録映像に映る講師の姿は、演じる生徒を正解のイメージに導いているようにしか見えなくなってしまうだろう。
 万田さんや大工原さんの態度はまだ常識の範囲内だが、下手をすれば、西山さんや井川はイメージの再現のために生徒を洗脳しているかのように見えてしまう。


 だが、それはちがうのだ。
 たとえば、万田さんがちひろ役、良江役の二人の生徒に指示した芝居はそれほど複雑なものではない。頭の中でイメージしようと思えば、イメージできる動きである。
 なのに、なぜインタビューで万田さんは、事前に考えてきたのは、ちひろと良江の最初の位置だけだった、と答えているのだろうか。
 たぶん、芝居を決定するのは、カメラで撮るときの役者の見た目だけではないということなのだろう。万田さん自身が試しに演じることで把握できるような何か、役者が実際に演じることで把握できるような何かが、芝居をつくっていくときに重要な要素として作用しているのだ。
 また、西山さんも、頭の中で芝居について考えるのには限界がある、と言っている。役者がホンを読むときの声が自分の思考を触発するのだ、と。
 そして、リハーサルのときには、良江役の生徒のただ突っ立っているだけの姿を面白がり、そこから芝居をつくろうとしているのである。
 だとしたら、とりあえず、演出については次のように言うことができるのではないだろうか。
 演出とは、役者の身体と対話しながら、シナリオを読み直し、芝居を模索する作業だ、と。


注5:初等科生のリハーサルや撮影現場を見学していて感じるのは、「演出とは監督の頭の中にある正解のイメージを再現するものだ」という思いこみに囚われて、そのようにふるまってしまうひとが多いということだ。
本当のことを言ってしまえば、頭の中で芝居の細かいところまでイメージすることなどできるわけがない。だから、役者が実際に演じるのを見てまず感じるのは、何かがちがう、という漠然とした違和感だけであってもおかしくはないのだ。
けれども、監督は頭の中に正解のイメージを持っているかのようにふるまわなければならないと思っているひとは、芝居を一度見ただけで、どこをどう修正したらいいかを指示しなければいけないと思ってしまう。
そこで、監督する生徒の多くは、頭の中のイメージの貧しさをごまかすように、登場人物がどういう気持ちなのか、ドラマの中で何を象徴しているのかなどを役者に長々と説明しだす。
だが、その抽象的な説明にまっさきに説得されてしまうのは監督する生徒自身で、内面や象徴を観客に向かって分かりやすく説明する芝居こそ大切なのだという新たな間違った思いこみに囚われてしまうのだ。
ドラマとは関係の変化を描くことなのに、関係を描くということが演出の課題でなくなってしまうのである。