『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』について(井川耕一郎)

撮影の日が迫っているとかで、大急ぎで書くように求められた作品である。
大工原正樹からのお題は、「長宗我部陽子岡部尚、木更津、憎しみ」というものだった。
長宗我部さんのことなら、もちろん知っている。自作の『寝耳に水』に出てもらっている。
岡部尚のことも分かる。西山洋市の『死なば諸共』の主演だ。
だが、木更津が分からない。千葉の海には何度か遊びに行ったことがあるが、いつも木更津は素通りしていた。


というわけで、ひとり、電車に乗って木更津に行ってみた。
港に向かう大通りを歩いていて思ったのは、この町にひとは住んでいるのだろうか、ということだった。
シャッターが閉まったままの店が多かったというだけではない。道でひととすれ違うということがまったくなかったのである。
港にたどりつき、町をふりかえってみると、壁から黒い汁が染みだし、したたり落ちているような建物が見えた。
行ってみると、旅館だった。いつ頃、廃業したのだろうか、入口が板でふさがれている。
そういう建物はどうやらあちらにもこちらにもあるようだった。


裏通りを歩いていると、あるビルの入口に映画のポスターが貼ってあった。
日に焼けて色あせているが、最近の映画のポスターである。
どうやらビルの二階にはゲームセンターと映画館があるらしい。階段をのぼってみると、たしかにそうだった。
ここにも、やはり、ひとはいなかった。ゲームセンターの奥に映画館があったが、そこにもひとの気配は感じられなかった。
たぶん、映写室にはフィルムがあるのだろう。しかし、それは上映されないまま、ひっそりと闇の中に置かれているにちがいなかった。


それから、私はとりとめのないことを思った。
とうの昔に死んでしまった町に、憎しみも何もあったものではないだろう。けれども、町のどこかに憎しみを保存する装置があって、誰かが訪れるのをじっと待っているとしたら、どうだろうか……。
今、思い返してみると、なんとも笑ってしまう光景だと思う。ゲームセンターの中をうろうろしながらなにごとか呟いている私の姿はまるで幽霊のようであったろう。


私は『()』というシナリオをなんとか書きあげて、大工原さんに渡した。
蠱とは古代中国の呪術である。
字の形からも想像できるように、器の中にさまざまな虫を入れて殺し合いをさせるのである。すると、生き残った最後の一匹には強い呪力が宿るという。
なんだか子どもが呪術とは知らずにうっかり遊びで実行してしまいそうなしろものだけれども、いろいろ調べてみてもよく分からないことが一つだけあった。
最後の一匹をどのように使ってひとを呪うのかが分からない。蠱の使用方法には諸説あって、正しい一つにしぼりきれず、どうもはっきりしないのである。


ひょっとしたら、蠱とはひとを呪い殺す方法ではないのかもしれない、と私は思った。
ひとは蠱を使うことができると思っているが、それはちがうのではないだろうか。
蠱を使おうとする者は逆に蠱にとり憑かれてしまう。憎しみは増幅されていく一方で、決して消え去ることはないのではないか。


ところで、完成した作品のタイトルは、『()』から『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』になったそうだが、これはなかなか興味深い変更だと思う。
ひとは目の前にいない相手を憎むことができる。だが、不在の相手に対して蠱を使うとはどういうことなのか?
そのとき、ひとは呪い殺すこととはちがう別の何かを欲するのではないか、と思うのだが……。


(『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』は、CINEDRIVE2010で上映されます。
 3月25日(木) 20:00 PLANET+1
 4月3日(土) 16:00 シネヌーヴォX
詳細は「CINEDRIVE2010公式サイト」をご確認ください。
 http://www.planetplusone.com/cinetlive/2010/ )